カテゴリー別アーカイブ: 写真

電子の眷属にあらず

2017021001

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 漫画家新谷かおるが、カメラを題材に描いた短編を集めた作品集『シリーズ1/1000sec.』。
 作品自体今から40年近く前に発表されたものなので、作中に登場するカメラメーカーの中には同業他社に吸収されたりカメラ事業をやめているメーカーがあったり、なによりデジタル化の波が押し寄せる遥か以前。写真が画像センサーからRAWやJPEG形式の画像に書き出されるのではなく、銀塩フィルムが写真の記録媒体であった。そんな時代に描かれた物語なので今の目でみれば理解するのに少々知識の必要な情報もあるもの。

 しかしながら本質は。
 カメラの前に広がる光学情報をレンズを通して静止した一枚の画像に変換する、カメラそのものの本質は銀塩フィルムから画像センサーに変わったとて枢要に違いはなく、本作で語られている内容も、細かなディテールにおいて現状と違いはあるもの物語の主点は現在と変わらず、今読んでも存分に面白いし作中人物の台詞に納得する箇所も多い。

 プロフェッショナルの現場においても、いやデジタルアナログに関してはスノッブ気取りの一言居士こそピントのずれたイメージを持っているかもしれないが、写真を生業とする現場の住人こそカメラのデジタル化に他の誰よりも速く反応し。
 フリーランスであれば手持ちのフィルムカメラを質にいれ頭金を作ってでも同業者に先んじデジタルカメラを入手し、確実に業界を席捲するデジタル化の潮流に遅れまいと前のめりに適応を図った結果。アマチュアの世界よりも職業写真の分野においてデジタルカメラが縄墨となり、追って趣味の世界でも徐々に普及浸透してゆき。蛇足ながらアマチュアの末席として自身もデジタルがスタンダードになったころカメラを趣味にするようになったのだが。

 例えその心臓にあたる機関が、フィルムからなる感光媒体から半導体製集積回路による撮像素子へと変わったとして、カメラそのものが電子の一門に転籍したわけは無い。今もその身は光学に属すものである。
 その程度は明言できる。

レンズ沼からの脱出

20170209

 現在所有のカメラ。OM-D E-M1 Mark II用の交換レンズ。

 写真手前からフォクトレンダー「NOKTON 10.5mm F0.95」
 オリンパスの「M.ZUIKO DIGITAL ED 40-150mm F2.8 PRO」
 カメラを挟んで同じくオリンパスの「M.ZUIKO DIGITAL ED 12-40mm F2.8 PRO」
 そして「M.ZUIKO DIGITAL ED 300mm F4.0 IS PRO」。

 後は、この写真を撮るのに使った、いまや奥さんのものとなったPENに付けっぱなしのパンケーキレンズ「M.ZUIKO DIGITAL 17mm F2.8」。

 以前までは、それ以外にも数本か交換レンズを持っていたもの、OM-D E-M1 Mark IIと300mm F4.0購入を契機にレンズを整理し、上の4本だけに集約。
 趣味のひとつと名乗ってもさしつかえない程度にカメラを使ってきたのは自覚しているが、どうやら自分自身レンズを多数蒐集し保管庫に入れておくような、レンズそのものを愛でる嗜癖は持ち合わせていないよう。
 レンズはカメラ本体に装着し振り回してなんぼだと思っているので、M.ZUIKO DIGITAL ED 300mm F4.0 IS PROを手に入れたのを機会に35mm判換算で21mmから600mmまでまかなえる、身の丈にあったレンズ4本のみを残し、重複する画角のものは処分。

 これでひとまずレンズ沼からの脱出と相成りました。

 とはいえ、今はこのように綺麗事を並べ立ててはいるが、数ヶ月もすれば性懲りもなくあのレンズが、この単焦点がと譫言のようにつぶやく写真本来そのものの意味を失い物欲所有欲に突き動かされる。マニアにありがちなスペックや価格希少性こそがマウントの取り合いを制するただひとつの手段であり、普及モデルやスペックに劣るものを攻撃冷笑しひと時の万能感愉悦に饗すただひとつの方法である。
 そんな感情の使奴となった、サロンやインターネットの場末によく見る依存症患者や廃人、形而上的死者のごとき顛末をむかえているのも想像に容易いので。

 「レンズ沼からの脱出」と勇ましい表題をつけたもの、断定形ではなく語尾に疑問符を含むものとして。数ヶ月後または一年後にこの項目を見返し、自身上に述べたことを履行しているか、単なる艶二郎の不実空言と終わっているか。確かめてみようと思います。