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『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』

さりとてともあれエヴァンゲリオンの劇場版に関しては。
今では旧劇場版と呼ばれる『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 シト新生』から新劇場版にいたるまで全て公開時に映画館で鑑賞してきましたので。熱のこもった時期もあり冷めた時期もありと気がつけば足掛け25年近くになったエヴァンゲリオンをめぐる体験はこれまでの自分自身の半生をも振り返るような感慨があり。

加えて重大なこと。他人様においては瑣末小事な、しかしながら当事者においては重用大事として今作鑑賞に際して同伴者として我が子が。早いもので10代をむかえた娘と一緒にエヴァンゲリオンを観た事は。
『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』本編そのものが今までの中で最も。親というものの在り方、子供について、そして親と子供の在り方について踏み込む内容であったことも相まりきっとこれからも忘れられぬ体験になったかと。

もしもタイムマシンがあったのなら。
時間を越え言葉を過去に送れるならば。
『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』を劇場で観終えた直後のわたくしに向け。

「お前はこのあとに色々な経験を積み重ねながらやがて結婚し父親となるであろう」
「そしてエヴァンゲリオン自体はこれで完結では無く、紆余曲折をへて24年後にシンの完結編が公開される」
「お前はエヴァンゲリオンの完結編を娘と一緒に映画館で鑑賞することとなる」。

あのころの自分自身に向けてそう伝えたいものです。

『捜索者(The Searchers)』

 映画『捜索者(The Searchers)』。

 ジョン・フォードがメガホンをとりジョン・ウェインが主役を演じた南北戦争終了から3年後西暦1868年のアメリカ西部地方を舞台にした1956年公開の劇場映画作品。
 そもそもことの起こりは、今年初めにRDR2『レッド・デッド・リデンプション2(Red Dead Redemption 2)』を。
 アメリカ合衆国の西部地方開拓時代当時、フロンティアと呼ばれたアメリカ未開拓地を舞台にした物語、通称西部劇。を題材にした家庭用ゲーム『レッド・デッド・リデンプション2』を終えてからもずうっとこのゲームの事が心に残り続け。

 劇伴音楽集を購入したり同作が作られるにあたって参考にされた作品など。明朗快活な勧善懲悪の物語に収まらない西部劇を巡ってゆくうち、フロンティアの時代とその終わり。そしてその後のアメリカと幾許かの同国製コンテンツに通奏低音として綿綿刻まれている「居場所を失った、消えゆく男たちの物語」を了得し。
 さらに自分なり掘っていった末たどり着いた映画が『捜索者』。

 DVD版を。ブルーレイ版をと最初は考えていたが日本語吹き替えに対応した国内流通版はDVDしか無いことを知り、注文したDVD版が先日届いたもので取り急ぎ鑑賞したのだが結果予想を上回るものだった。

 今作に関する評釈をざっと掻い摘むと、公開当初は興行成績も評論家からの反応も。曰く「お話が暗すぎる」「ジョン・フォードとジョン・ウェインには偉大なるピルグリム・ファーザーズの精神を否定するようなものを撮ってほしくない」等散散だったもの、やがて時代ととも評価は覆され現在ではフランス『カイエ・デュ・シネマ(Les Cahiers du cinéma)』誌の「史上最高の映画100本」第9位に選ばれ、本国アメリカ映画協会でも「最も偉大な西部劇映画第1位」に選出されたと。

 また批評家筋ばかりでなく同業者からも。
 『タクシードライバー』の脚本を手掛けたポール・シュレーダーは『捜索者』から強い影響を受け、ロバート・デ・ニーロ演ずる主人公トラヴィスの人物像を造形し。後に同作を翻案し現代アメリカを舞台に換えたかたちの『ハードコアの夜』を自ら監督している。またデヴィッド・リーンは同作の、まだ開拓時代の面影が残されていた大西部の光景をフィルムに写し取った風景描写に強い感銘をうけ『アラビアのロレンス』を制作するにあたり、何度も『捜索者』を鑑賞し風景撮影の参考にした。
 等等同作の西部劇というジャンルに収まらない映画としての先駆性普遍性を称える逸話には事欠かないのだが。

 他者の評価や反応などはどうだっていい。とどのつまりはわたくし個人がどう感じ思ったかだ。
 シネフィル未満の映画好きがぼんやりと想起する類型的な西部劇。物語のクライマックス、絶体絶命の危機的状況に騎馬隊が駆けつけ事態を解決するわかりやすいハッピーエンドでも無ければ。現代劇に特有の、あえて露悪要素を殊更丹念に描写する「観客の心の奥深くまでけして消え去る事なき爪痕を刻んでやろう」と、作り手の前のめりな自意識が鼻につく陰惨苛酷さとははっきり違ったある種の暗さと後を引く苦さ、だがけして不快でない苦さがここ数年あたりの心情と重なり混じり合ってすうっと入っていった。

 とはいえ2020年も間近に迫った今の目でみれば60年以上前に作られた劇場映画。マカロニ・ウェスタンの台頭やサム・ペキンパーの登場を待つのは当分先となる頃に作られた、所謂西部劇というジャンル映画の文法を大きく逸脱してはいない作劇は、ひどく牧歌的でいささか冗長にすら感じられるのも客観では理解できる。
 例えば劇中の幕間にあたる箇所。ジョン・フォード演じる主人公と彼に反発しながら捜索の旅を共にするジェフリー・ハンターの旅の途中の一幕。ネイティブ・アメリカン相手に取引をしながら情報を得る描写など、再映画化を仮定したならば真っ先に省略される部分かもしれない。だが、マックス・スタイナーの手掛けた詩情溢るる劇伴音楽と相まって忘れられぬ一場面になっている。
 あるいはもしも仮にタランティーノが製作を務め、イーライ・ロスが『捜索者』のリメイクを手掛けたとするならばモダンな手触りかつ括弧付きでの「良くまとまった」作品へとリノベーションされるかもしれないが、それは求めていたものとはかけ離れてしまうのでは。あくまで愚考でしかない私的な感情にすぎないが。

 ともあれこの作品に対しシンパシーのような曰く言い難い心の動きを得たのも、そして製作直後本国での拒否的反応と反比例するように高まっていった評価も、つまりはその後幾度も舞台を変えプロットを変えて語られ続けてゆくこととなる「居場所を失った、消えゆく男の物語」をフィルムに焼き付けた最初期の映画だったからではと。
 だからこそ公開当時アメリカにおいては、薄薄わかってはいたが明示化されてほしくはなかったからこその拒否反応であり、わたくし個人においてはミッドエイジクライシスをはっきり自覚しはじめた年齢に鑑賞したからこその深い感受であったと。