『Red キング・クリムゾン結成40周年記念エディション』が発売されたのをきっかけに久しぶりに鑑賞して、震えた。数十年前、始めてキング・クリムゾン、King Crimsonを聴いた時の感覚が甦った。
いまだに音楽の好きな中高年。子供の頃に感じた衝撃や興奮が忘れられず、あの時あの瞬間の感動の欠片を捜し求めるように音楽を聴き続けている中高年の殆どが、かつてそうであったように。
能動的に音楽を聴き始めた当初は、ジャンルや年代洋邦問わず無節操に音楽を聴きあさり。そして多くがそうであったように、やがてプログレッシブ・ロックというジャンルに出会い。
ピンク・フロイドやEL&P等の選択肢もあるものの。多くはイエス、もしくはキング・クリムゾンのどちらかに最初は大きく傾倒したと思う(どうでもいいが。イエスとキング・クリムゾンは、それぞれフェラーリ・365GT4BBとランボルギーニ・カウンタックに当てはめられる「イエス=365GT4BB、キング・クリムゾン=カウンタック」との勝手な自説を十年前から持っている)。
そして、これらの音楽。プログレッシブ・ロックを最初に聴いた年齢が、もしも10代前半から半ば頃であったのなら。
幼少期ならではの全能感と。成長するにしたがい嫌でも認識させられる、社会の中での自分自身という「個」の相対的な距離と大きさ。相反する二つの要素が、ぶつかり合いつつ何とかとりあえずの妥協点に収まってゆく過程を、多くの人が共通して経験するであろう年代。10代において。
大風呂敷や外連。あるいは衆愚は気づいていない、理解できる筈もない世界の真実。また、他とは違う一癖も二癖もある何か、等の要素を持った作品や、自身の中にあるそれらの要素を喚起させる作品に強く惹かれやすい傾向。今では「中二病」との非常に的確な言葉をあてはめられているが、中二病を患いやすい年代に、それらの音楽を始めて知ったのならば。
『クリムゾン・キングの宮殿』や『ポセイドンのめざめ』の、おどろおどろしいジャケット絵。なによりそれらの曲名。「クリムゾン・キングの宮殿(炎の魔女の帰還、そして操り人形の踊り)」「ムーンチャイルド(夢浮橋と幻影)」「リザード( Aパート『ルーパート王子の覚醒』Bパート『孔雀物語のボレロ』Cパート『戦場のガラスの涙』Cパート《第一章『夜明けの歌』第二章『最後の戦い』第三章『ルーパート王子の嘆き』》Dパート『ビッグ・トップ』)」等の曲名に、己の内なる中二病要素を突き動かされ、結果。多くがイエスではなくキング・クリムゾンの方を選択したと思われる。勿論自分だってそうだ。
しかし、やがて歳をとるにつれカウンタックだけでなく、ピニンファリーナの流麗なスタイリングも含めて365GT4BBの良さも判ってくるように。ロジャー・ディーンのアートワークを含めて、その完成度からキング・クリムゾンだけでなくイエスの良さも判ってくるようになるのだが。
さて、プログレッシブ・ロック。今となってはプログレッシブ・ロックの、言葉の持つ意味合いも当時とは異なるものになってしまった現在において。
プログレッシブ・ロックと称されていた音楽が、その言葉通り。常に進化や変化、音楽的前進を自らに課したが故、結果として音楽そのものは瞬く間に形骸化してゆき。音楽的前進という主題はオルタナティブ・ロックやポスト・ロックに継承され、やがてはそれらも来たるべきなにかに継承され、ジャンルとしては形骸化し陳腐なものに成り果ててしまう。当然の帰結を迎えることになるのだが。
余談として。プログレッシブ・ロック全盛時には、やれ保守的だ。形式と技巧に執着し過ぎて音楽的挑戦が全くない。その音の五月蝿さとは裏腹に全然刺激的で無い。などと散々揶揄されてきたハードロック、ヘヴィメタルは。その保守性が故、音楽ジャンルとしてのプログレッシブ・ロックが有名無実化した現在も。それを愛好する特定ファンに支えられ、いまだジャンル音楽として元気に、その喧しい音を鳴り響かせている現状は皮肉といえるかもしれないが。
余談はさておきプログレッシブ・ロックそれ自体は、40年以上の歳月を経た結果。プログレッシブでも何でもない、少し変わった程度のロックミュージックになってしまった訳だが、こと個々の楽曲にいたっては。イエスはいうに及ばず、勿論キング・クリムゾン。そして今手元にある『Red』。
その音楽に込めた実験や精神は、もはや手垢に塗れたどうという事のないものになってしまったのかもしれないが。こと楽曲そのものに関しては、今作が発表されてから30年の歳月を経て尚、聴き手の心を鷲掴みにする理屈抜きの迫力にみなぎっている。
それこそが音楽の魅力なのだろうし(何故なら、音楽についての批評や評伝の類ではなく、音楽それそのものが希求されているからこそ。より良い音であの頃の感動を、とのリスナーの願いに応え。数十年経った今もリマスター盤として再発され続けている)自分も含め、いまだに音楽の好きな中高年がそれを聴き続けている。続けていられる動機の大きな要因なのだろう。
付記として。今作の日本盤発売に合わせて、雑誌『レコード・コレクターズ』の11月号で巻頭特集が組まれていたのを購入し、読んでみると。
『Red』製作当時のキング・クリムゾンは。メンバー間における音楽的価値観の明確な相違や、また私的感情のもつれからくる修復不能な亀裂など、このアルバムを最後に活動を休止するのは不可避であった。との言が様々な角度から繰り返し書かれてあり。
しかし、皮肉というべきか。であったからこそ。
気の置けない仲間同士が同じ価値観を共有しつつ作られた。あるいは絶対的な支配力を持ったフロントマンの下、他のメンバーがフロントマンの忠実なしもべとなり作られた作品には表現不可能であろう迫力が。
やがて訪れるどころか、すぐそこまで終わりの時が迫っている事を全員が理解している。その点においてだけは感情を同じくしたメンバーによって作られたからこその迫力が。
アルバムに込められた思想や方法論などは年月と共に、たいして意味の無いものになってしまったのかもしれないが。作られた当時のスタジオに充満していたのであろう「鬼気迫る」以外の言葉に例えようのない感情だけは、今なお色あせること無く個々の楽曲に焼き付けられている。
それだけは、本作『Red 40周年記念エディション』を聴いたリスナー全てに通底した感想なのでは。