カテゴリー別アーカイブ: 写真

「好き」と「マニア」の彼方此方

 このサイトを始める数年前からカメラ。

 銀塩の感光特性を利用しレンズの向こう側の情景をフィルムへ写しとる作業を、半導体を使用した固体撮像素子が取って代わり。レンズの向こう側の情景、すなわち光の情報を撮像素子が電気信号に、そして画像へと変換するデジタルカメラがフィルムカメラのオルタナティヴとしてすっかり定着し。
 のみならず、フィルムカメラの中核要素であったレフレックスミラーをばっさりオミットし、ミラーを介さず光の情報をそのまま撮像素子に投射する。デジタルならではの設計思想で作られた「ノンレフレックスカメラ」あるいは「ミラーレスカメラ」と呼ばれる製品も新しい潮流として市場に流通し始めたあたりカメラに関心が向き。

 一台目を購入した頃はデジタルカメラのコンパクトさと平易さに所有した喜びも相重なり、何処かにいくたび何かにつけては写真を撮り。撮った中の気に入ったものを御丁寧にプリントアウトし、家人などに見せては悪く無い反応をいただいていたのが。
 最初は屈託なく「ただ好きだから」「楽しいから」の気持ちの赴くままだったのが。徐々に思いを拗らせ、やれ焦点距離だのそれF値だの瑣末なところにばかり執着するようになり、いつしか膏肓に入る。余人はおろか当人にも手の施しようのない状態へと。

 以前はそれなりに反応を示していた筈の家人に、カメラやレンズの話を向けても「勝手にすれば」「小遣いの範囲内で好きにしたら」の言がかえってくるようになった時にはっきりと自覚した。

 カメラに限らず、おそらくは趣味関心ごと習い事おおよそ全てのものに通底しているのだろうが。
 始めた頃は、好きと楽しいだけで満ち足りる朗らかな光に満ちた地点で、朴訥にただ行為そのものをありのまま享楽していた筈が、いつのまにか原初の楽園に後ろ足で砂をかけ。倨傲傲語と虚仮威しの綾なす「マニア」という餓鬼道に堕していたことに。

 鼠算式に膨れ上がる承認欲求に引き換えて失い、二度と取り戻すこと敵わない初心と、いまだ初心を保ち続けている存在に相対したとき、羨望と羞恥を抑えることも出来ず。
 カメラに引き寄せて鑑みるに。写真を趣味と称する野郎連中の多くが、一時流行り言葉になっていた所謂「カメラ女子」に対して「空と猫とヴィンテージフィルターとYシャツと私www」等あげつらい冷笑を向けていたその要因のひとつに。上に記した初心を保ち続けている存在への、初心を失ってしまった者なりの憧憬の感情の裏返しも含まれていたのでは、内省を踏まえ憶測する。

 また。徹底して「マニア」を掘り下げていくと、追い求め突き抜けたその先には「一流」の高みがあるのを知りつつ、しかし自分自身は到底一流になれないことを理解する程度の批評眼を残しながら。一流の目に入ろう気に入られよう取り入ろうと、次第に手数より小手先や口数が増え、有厚無厚おべんちゃらばかりが上達し。

 日なたでは初心を嘲笑し陰では一流を当てこすりつつ。ひとたびペダンチズムの徒が集えば蒟蒻問答を出しあい「やつがれはこんなに貴重な道具を持っている」「小生はこの道に、これだけの手間とお金と時間を費やした」あるいは「著名な作家先生の作風にならって、手本をなぞってこしらえた拙の力作、悪い理由がない」「高名な技術解説書に照らし合わせれば、貴殿の労作は全く正しくない」「否々。この業界で名を馳せた、かの何某さんとも面識があり実際に言葉を交わした間柄である手前が、尊公よりも劣っている訳がない」そう、貸しスペースや居酒屋喫茶店、コミューンあるいはインターネット空間内で自己顕示とマウンティングにあけくれる立派なマニアの端くれになっていることを知る。

 ただ「好き」。それだけの動機でおこなっていた頃のほうが遥かに射程の大きな、かけがえのない美点を持っていたことを自覚しながら。もう、そのような佳処を二度と取り戻すことは出来ないのも把握しながら。
 馬の耳に念仏蛙の面に小便。性懲りもなく、わずかな時間の暇を見てはいつか購入したいレンズの諸元表を幾度となくながめる。そんな、俗物根性の上に教条原理権威主義で建屋を作り、おまけに悋気やら自尊心やらを並べ立てた「マニア」という餓鬼道。しかしこれはこれで居心地がよいもの「ぬるま湯なのだから心地よくて当たり前」に、どっぷり浸かるのでした。

デタラメなりのそれらしさ

 いつのまにかカメラが趣味だと。臆面なく名乗れる程度にカメラへと。いやカメラというよりレンズ、所謂レンズ沼に嵌り。そして嵌ってみると、この泥沼。存外心地よいことも知り。
 そして、あれやこれやをレンズを変えつつ撮影し、部屋に戻って撮った風景を眺めているうち。
 カメラよりも遥か前より下手の横好きとして続けていたお絵かきへと。

 単に撮影したものを漫然と見ているだけでなく、お絵かきの方になにがしか活用できないかと助平根性がむくむくと頭をもたげ。
 写真からお絵かきへの活用として大半の方が同じことを発想するであろう、お絵かきの背景に。
 自分で撮影した風景を、そのままお絵かきの背景に移せば自身の意図するものに。しかも写真をそのままなぞらえれば簡単かつ効果的なものが出来るのでは。
 安易な発想のもと撮影したものを、そのまま描こうとする絵の中に写し替えようと試した矢先。しょせんそのような安直なやり方、下手の横好きの下手の浅知恵に相違ないこと明確に実感する。

 所謂スーパーリアリズム。そこまでゆかずとも具象、劇画調の絵を描くのなら判るが。
 有り体にいえば下手くそな、写実主義に則れば全く正しくない突っ込みどころだらけのデタラメな絵を、写真の背景の上にただ乗せてみたところで。
 とはいえ、イマドキの画像編集ソフトには元画像の輪郭を抽出強調したり画像の階調を減色単純化する等の機能も豊富に搭載され、それらを使えば写真をそれらしい背景画像へと変換することも可能ではあるが。いくらそれらの機能をいくども重ねたとて、根本的な問題は何ひとつ改善されない、どころか病巣をより際立たせる結果に。
 下手ともまた異なる、見た人の多くに得も言われぬ違和感や気味の悪さを抱かせるだけのものにしかならない。もっともその生理的嫌悪感を意図している「判った上であえてやっている。見るものの意識や感情をコントロールしている。観客を手のひらの上に乗せてやっている」のなら話は違うが。

 考証や方法論、現実主義に則れば悪目しかないデタラメなものにせよ、デタラメの中においてはそちらよりもこちらの方が違和感を抱かない、抱かせないため。デタラメなりのそれらしさがあるのを。
 おそらく間違いなく。お絵描きに限らず、映像映画製作、あるいは小説等の文筆活動を含め広義における創作に携わっておられる方の殆どにおかれては。言葉にせずとも、メソッド化しなくとも経験を通じて理解熟知し実践している言わずもがなのことなのでしょうが。
 こんなこともカメラを趣味にするようになって判ったことでした。

 ちなみに下のものが実際の作業に使うパソコンの画面を画像に保存したもの。画像の中の右が、いただいた年賀状の返信用の絵の、背景の参考にと自前で撮った写真。そして左が写真を参考にして実際に作った絵の背景。

20160613

 但し、そうはいっても。くどくどと戯れ言を重ねても、目にとめられた方の大半は「御託は結構だが、どんな言い訳をしても下手は下手。それ以上でも以下でもないのでは」との尤もな偶感を抱かれるでしょうが。

 下手は下手なりに。トライアンドエラーを積み重ねながら今に至っているのです。