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ミシェル・ウエルベック『H・P・ラヴクラフト:世界と人生に抗って』

 フランスの小説家であり詩人のミシェル・ウエルベック。数年前にフランスで起きた、風刺雑誌の出版社を武装犯が襲撃し多数の死傷者が出た「シャルリー・エブド襲撃事件」にて図らずも国外においても耳目を集めることとなったミシェル・ウエルベックが、幻想作家ハワード・フィリップス・ラヴクラフトことH.P.ラヴクラフトについて書いた『H・P・ラヴクラフト:世界と人生に抗って』。

 ラヴクラフトが綴りのちに「クトゥルフ神話」と称されるようになる作品群の熱狂的ファンにとっては本人の次くらいに、とはいえラヴクラフトへの評価とは反比例するかたちで酷評されることの多いオーガスト・ダーレスとの関係性などにはほぼ触れられることは無く、あくまでもラヴクラフト自身と、彼によるクトゥルフ神話創造の前日譚。
 何故にH・P・ラヴクラフトが、かような作品を。「宇宙的恐怖」と称せられ後の世において多くの信奉者を産み、巨大暗黒神話体系として拡張され続けることとなる、その原典を創案できたのか。
 ラヴクラフトの残した手紙など様々な資料を基にしながら、著者ミシェル・ウエルベック自身の主観も随分と入れ込んであろう事も行間から伝わる作家評。
 少しだけ要約。しかして要約などという作者本人にとっては全く有り難くない行為をするその時点で私自身の主観も多かれ少なかれ織り込まれることも重重承知で、本著の要約少しだけお許しいただけるならば。

 ラヴクラフトはピューリタン、清教徒的禁欲主義と潔癖さとで謹厳に世界に関わってゆくことへ狂信と形容しても差し支えない強い執心を持ちながら。同時に隠しきれないほど強い人種主義にとらわれ続けるアンビバレンツに満ちた人物であったと本著は定義し。
 そんな彼が結婚を機に当時からアメリカの、いや世界の中心であり文化と人種の坩堝であったニューヨークにて生活をすることになった、そのニューヨークでの経験が決定的な引き金となり、やがて結婚生活も破綻し人としての生業。自身と世界とのかくあるべき拘りあい方も終焉を迎えたが、と同時に幻想作家としてH・P・ラヴクラフトの人生がはじまったと。

 最先端の音楽や芸術と共に雑多な人種が街中に溢れかえるニューヨークに住んでいた際の経験。彼にとっては混乱と嫌悪に満ち満ちた経験が、ジャズを代表にした新しい音楽や文化への終生にわたる激烈な嫌悪に結びついたのではとの推論は大変興味深いものであったし。
 おそらくはラヴクラフトの筆による作品とダーレス等フォロワーの作品との決定的な違い。
 主人公は大いなる存在に抵抗を試みる場合もあるが、結局は抗いきれずに世界の終局を匂わせる結末で物語は締められる。多くのラヴクラフト作品に共通してただよう不穏な通奏低音も、作者自身の体験に基づいた現実認識。
 ただただ猥雑で巨大な恐怖と混沌の坩堝にしか受け取れられない異人種や若者たちの産み出す音楽や芸術あるいは思想や価値観が、しかしどれほど否をとなえたところで自身の信念とはうらはらに、これら混沌がニューヨークを越え伝播しやがては世界中を埋め尽くすであろう認識に基づいた、ラヴクラフトによる世界のカリカチュアだったのではと憶測されるが。
 また、伝統や保守的価値観に固執し若者文化を徹底して忌避し続けたラヴクラフトにより綴られた作品が。後世において若者、あるいは中二病罹患者の心を永遠に惹きつけることとなるのは皮肉以外のなにものでも無いと思ったが。

 そんなことよりなにより個人的に『H・P・ラヴクラフト:世界と人生に抗って』を一読して強く感じたのが、広義のカルト作品。商業的成功関係無く熱狂的な信奉者を獲得しがちな作品においては一般的な通俗作品より、作品ニアイコール作者とファンとの距離が近くなる。いやファンの側からすれば作者と同一存在になりたい、あるいは我こそが作品の一番の理解者である、魂と魂で結ばれた相似関係でありたい、否そうであると。
 傍目からすればまさしく狂信以外のなにものでもない偏愛を抱かれがちであるということ。

 概して、そのような作品や作者に向けた評論や評伝の類は。
 いや評論や評伝に限らず、熱狂的な信奉者を持つ原典を基に作られるリメイクや続編外篇の類。
 少し前では『シン・ゴジラ』や最近では『DEVILMAN crybaby』などオリジナルに対するアプローチに独自の観点が込められていればいるほど、あるいは語り手の熱量が高ければ高いほど。
 「オマエはあの作品に秘められし真意をまったく理解していない」「あの作品に対してこの程度の把握しか出来ぬなど笑止千万噴飯ものである」などファンの反発も強く大きくなりがちであろうと。

 おそらくは本著著者のミシェル・ウエルベック自身も、尋常一様の評論や評伝を書こうなどの気持ちは露程も無く「ラヴクラフトこそ私が世界と関わる続けていく上での羅針盤だ」「彼の作品に通底する文明嫌悪と、その攻撃作法こそが混沌に満ちたかの世界に抗い続けてゆく上での我々に残された貴重な航海図だ」くらいの前のめりな強い動機を持って記したのではと臆測するが。

 であればあるほど熱狂的ファンから「それは違う」「なにも解ってない」の反発も強くなるのではと考えるし、上述した作者本人への信奉とは真逆なオーガスト・ダーレスに対する酷評も「もしも私がダーレスの立場だったらこうしていた」「仮に私がラヴクラフトの時代に生をうけていたならば、あんな三流作家など完膚なきまでに論破しク・リトル・リトル神話が安っぽい勧善懲悪のソープオペラに堕すのを阻止できた筈だ」など作品と作者への過剰な偏愛から、作者に寄り添おうとするものへ攻撃的になりやすいのでは、とも推考する。

 とはいえ詰まる所こういうものは。対象への客観的な資料や冷徹な視点を叩き台にした論評というより「俺は作者の有り様へとここまで肉薄している」「これは今までの智見と思惟の集積により導き出された結論であり真理である」「その批判はイコール私の生き様への批判であり攻撃であり断じて許さない」など同一の作品や作者に対するものであっても永遠に交わることの無い。どちらも各々の主観においては絶対正義や教義信条であろうから。
 イデオロギーとイデオロギーが角を突き合わせたところでどちらか片方が殲滅されることはあっても皆が心底笑顔で納得できる共通認識の生成などまず有りえぬのでは。
 そのようなことを思った次第。

子供の七五三を契機に結婚と夫婦について考えてみる

 先だって子供の七五三詣でに家族でいってきまして、いつの間にか七歳になっていた子をながめながら改めて家人との結婚と、結婚してからの生活。子供が生まれてからの生活について考えてみると。
 自身について自己採点してみれば、他のことについては何ひとつよい点数をつけられないもの、ひとつだけ子育てに関してだけは及第点以上、100点満点中80点以上くらいは自信をもって採点できる。その程度には子供と向き合い続けてきた自負はあるが、それは育児にも積極的な良い父親アピールをするいやらしい詐術だけで無く、家人との生活においても。これからの生活を考えると自身の私欲我執をかなりの部分抑制し、その分を子供に向けたほうが夫婦間においても有用なのかもと。

 いまだ当事者になったことは無く、周囲の話などを聞いての手前勝手な推考でしかないもの、熟年離婚。大半は女性から男性に三行半をつきつける別れ話の原因を考えるにその要因の大くには男性側の育児への非協力。仕事や男の甲斐性なんて形骸化した空念仏を逃げ口上にし、育児の大変面倒なところをほぼ女性側に押し付けた結果もあるのではと。

 育児の大変なところを妻女にずっとまかせ続けた結果、女性にしてみれば「あんな大変だった時もあの時も、コイツは仕事を口実に子供の世話を全て私に押しつけてきた」の気持ちが溜まって溜まって、結果子供が手を離れた時が旦那との縁の切りどきへと。
 子供が手を離れた時には相方への好意等とうに消え失せ「これからコレと二人っきりで生活するなんて到底耐えられない、朝晩このツラだけを眺めなければいけないなんてこちらの寿命が縮まりそうだ」と。だったら子供の近くにでも新たな住まいを構え第二の人生を謳歌し、クソ亭主とは金輪際縁を切ったほうが余程建設的で充実した日日を送れるだろうと。

 揣摩憶測でしかないが十分あり得る話だと。であれば家族としての生活だけでなく、このまま堅調に推移すればいずれは訪れるであろう家人との二人だけの生活を想像するに「あの時のあの子はこうだった、あの子にもあんな時があった、その時は大変だったなあ」など夫婦間で共有できている感情や経験は多ければ多いほうがよいのでは。その方が良好な夫婦関係を保ち続けていられるのではと。
 育児なんてもの、勿論目の前の子供が主体ではあるもの。二義的には結婚生活や夫婦などという、かたちのあるようでその実、曖昧模糊で非常に脆く亀裂の入りやすいものを多少なりとも円滑に保ち続けていくため、配偶者に丸投げすること無く積極的に前のめり気味に育児に携わるのは割りかた有用かと。