子供の七五三を契機に結婚と夫婦について考えてみる

 先だって子供の七五三詣でに家族でいってきまして、いつの間にか七歳になっていた子をながめながら改めて家人との結婚と、結婚してからの生活。子供が生まれてからの生活について考えてみると。
 自身について自己採点してみれば、他のことについては何ひとつよい点数をつけられないもの、ひとつだけ子育てに関してだけは及第点以上、100点満点中80点以上くらいは自信をもって採点できる。その程度には子供と向き合い続けてきた自負はあるが、それは育児にも積極的な良い父親アピールをするいやらしい詐術だけで無く、家人との生活においても。これからの生活を考えると自身の私欲我執をかなりの部分抑制し、その分を子供に向けたほうが夫婦間においても有用なのかもと。

 いまだ当事者になったことは無く、周囲の話などを聞いての手前勝手な推考でしかないもの、熟年離婚。大半は女性から男性に三行半をつきつける別れ話の原因を考えるにその要因の大くには男性側の育児への非協力。仕事や男の甲斐性なんて形骸化した空念仏を逃げ口上にし、育児の大変面倒なところをほぼ女性側に押し付けた結果もあるのではと。

 育児の大変なところを妻女にずっとまかせ続けた結果、女性にしてみれば「あんな大変だった時もあの時も、コイツは仕事を口実に子供の世話を全て私に押しつけてきた」の気持ちが溜まって溜まって、結果子供が手を離れた時が旦那との縁の切りどきへと。
 子供が手を離れた時には相方への好意等とうに消え失せ「これからコレと二人っきりで生活するなんて到底耐えられない、朝晩このツラだけを眺めなければいけないなんてこちらの寿命が縮まりそうだ」と。だったら子供の近くにでも新たな住まいを構え第二の人生を謳歌し、クソ亭主とは金輪際縁を切ったほうが余程建設的で充実した日日を送れるだろうと。

 揣摩憶測でしかないが十分あり得る話だと。であれば家族としての生活だけでなく、このまま堅調に推移すればいずれは訪れるであろう家人との二人だけの生活を想像するに「あの時のあの子はこうだった、あの子にもあんな時があった、その時は大変だったなあ」など夫婦間で共有できている感情や経験は多ければ多いほうがよいのでは。その方が良好な夫婦関係を保ち続けていられるのではと。
 育児なんてもの、勿論目の前の子供が主体ではあるもの。二義的には結婚生活や夫婦などという、かたちのあるようでその実、曖昧模糊で非常に脆く亀裂の入りやすいものを多少なりとも円滑に保ち続けていくため、配偶者に丸投げすること無く積極的に前のめり気味に育児に携わるのは割りかた有用かと。