ロバート・グラスパー「What is Jazz」の最新モード

20131117

 ロバート・グラスパー、Robert Glasperのグラミー賞受賞後初となるオリジナルアルバム『Black Radio 2』が発売されたが。
 ロバート・グラスパーの知名度が高まるにつれ、比例して聞こえるようになった、所謂オーセンティックなジャズを愛する一言居士の感想。曰く「ブラッド・メルドーの亜流」「雰囲気だけ」「ロイ・ハーグローヴが切り開いた場所に後乗りしているだけ」「新しくもないし実験的でもない」。またあるいは論客の方々、耳の肥えた高等なジャズ愛好家にとって錦の御旗であるマイルス・デューイ・デイヴィス三世を持ち出し「これらの実験は既にマイルスが『Bitches Brew』で実践済みである」「ジャズによるクラブ音楽へのアプローチなど『On The Corner』の時点で完成されている」等々。
 認められない、どうしても序列の下に置きたい音楽を批評批判するひきあいに、いちいち墓穴から引っ張り出されるマイルス・デイヴィスこそ好い面の皮だと思うのだが。そんな瑣末な事より問題としたいのが、上記の言はどれもこれも的を射ているとは思い難い。批評批判するにしても、とうてい的確な論旨とは思えない。もっとも言い放った当人にしてみれば、正鵠を射抜いた、言葉の刃で一刀両断に切り捨ててやったとしたり顔なのかもしれないが。

 ともかく、ロバート・グラスパーと彼の音楽への否定的な含みをもたせた批評。その多くは直接的間接的表現の違いはあれど「彼の音楽など、ジャズの洪大なアーカイブを知るものにとっては、さして特筆すべき存在ではない」との論旨が中心にあるように感じ。
 それは一方では正しい。だが、本質においては見当はずれも甚だしい。それらの言を放つ論客は。ジャズ史という絶対的権威を後ろ盾に、新参者に対し入信に相応しい資格があるかどうかを選別する司祭にでもなったつもりなのか。意地の悪い言葉のひとつもいいたくなる。

 何故、一方では正しいと思うのか。ロバート・グラスパーと彼の音楽は、何も無いところから生まれ出た特別な存在ではない。また、歴史も文化も異なる場所から土足で押し入り、我が物顔でジャンルを無作法に踏み荒らし搾取簒奪してゆく野蛮人でもない。19世紀末のアメリカ南部地方をおおよその起点とし、スウィング・ジャズからモダン・ジャズ。ビバップやハード・バップ、新主流派からインプロビゼーション、スピリチュアルといった経緯を経て今に至る歴史の線上で、それを更新するための大きな歩みを続けている。ジャズ音楽の、歴とした継承者の一人であること(疑問を感じる方がいるのならば、そもそもミュージシャンとしての彼の出発点が。新伝承派の開祖、毀誉褒貶を含めて現代ジャズの申し子、ウィントン・マルサリスと彼のグループにおける重要人物であるベース奏者、ボブ・ハーストのお墨付きを受けてデビューした事を伝えれば納得するのでは)。

 では何故、見当はずれも甚だしいのか。
 ロバート・グラスパーの音楽には今まで無かった新しさが確かに。ジャズ一言居士が、彼と彼の音楽を揶揄する目的でひきあいに出す偉大なジャズミュージシャン達には無く、ロバート・グラスパーは持ち合わせているものが、確かにある。
 それは何か。それはクラブ音楽とジャズ音楽との融合。それも、例えばロートレアモンが「解剖台の上での、ミシンと雨傘との偶発的な出会い」と言葉にしたような、いささか強引で扇情的な結合ではなく。料理とワインとの良い相性をして使われる「マリアージュ」の言葉が相応しい、クラブ音楽とジャズ音楽との融合。
 重ねて。ジャズによるクラブ音楽へのアプローチそのものは、ロバート・グラスパー以前から様々なジャズミュージシャンが試みているものの、真の意味でクラブ音楽とジャズ音楽との融合は、彼と彼の世代において初めて成功したと感じる。
 それは何故か。それは彼と彼の世代が、理論や方法論あるいは実験や批評的精神からではなく感覚として、クラブあるいはクラブ音楽なるものの本質を知っているからこそ。物心ついた頃からクラブと、クラブの中でDJが流す音楽に慣れ親しみ、楽しんできた世代だからこそ。頭でっかちな後付の理屈ではなく、クラブ音楽の良さを知っているから。極めて自然にそれが当然であるように、自身の演奏する音楽の中にクラブとクラブ音楽の美点が取り入れられている。ただその一点のみで、上記の大きな論拠。ロバート・グラスパーの新しさの理由になっている、そう考える。

 それでは、クラブあるいはクラブ音楽なるものの本質とは。
 経験も含めて、自分の考えるクラブ。そこで流れる音楽。それを流すDJとは。それらはあくまでも、クラブに訪れた客に楽しい思いをしてもらう為の演出であり、仕掛けに過ぎない。クラブにおける主体は、音楽をバックグラウンドに美味しいお酒を飲んだり、楽しい気持ちになって踊っている客そのものであり。一部の例外を除き、クラブにおけるDJは専制君主のように振舞ってはいけない。オリジナルである必要もない。独自性や独創性は、ことクラブにおいては大切な要素ではない。オリジナルの楽曲でなくとも、他人の楽曲や過去からの引用であっても、それでフロアが盛り上がればよいのだから。DJも音楽も、クラブを訪れた客に楽しい気持ちになってもらう、ただそれだけの為に機能すべき従属的存在であるのだから。
 それらを踏まえるとロバート・グラスパーの音楽には、ブルーノート・レコードに移籍する以前。最初期よりクラブ音楽の本質。自分自身が前に出なくとも、むしろ引き立て役や裏方に徹したほうが音楽としてより機能的に働くのなら。たとえ他者の楽曲のカバーであってもよい。他者のサポートにまわってもよい。ミュージシャンとしての自意識よりも、どのようにすれば聴き手を喜ばせるか。良い雰囲気を作り出せるか。クラブ音楽の本質が具備されているように感じる(なにせデビューアルバムのタイトルが、そのものずばり『MOOD』だ)。
 
 ミュージシャンとしての自意識や自尊心よりも、それがいかに音楽として機能するかを優先する。その為には引き立て役にまわる、裏方になる事をまったく厭わない、クラブ音楽とDJの本質が最初から備わっている。
 だからこそ、おそらく意識して。楽曲にゲストミュージシャンが参加する場合の表記には「feat.」フィーチャリングの言葉、クラブからもたらされた言葉を使っているのだろうし。また、ロバート・グラスパー自身。ジャズミュージシャンとしては異例と断言してよいくらい、他ミュージシャンのプロデュースを務める事が多い。
 決定的なのが、本人にとっても最高の栄誉といえるグラミー賞受賞。ジャズ一言居士が、彼と彼の音楽を揶揄する目的でひきあいに出すジャズミュージシャンの多くが、候補には挙げられても受賞には至っていないグラミー賞受賞の栄誉を。しかもジャズ部門ではなく、ジャズ部門以上の激戦区であるR&B部門において獲得したという事実をして(とはいえ。R&B「リズム・アンド・ブルース」を言葉どおりに解釈すれば、それはまさしくジャズでありジャズの多様性の証左といえる)。
 ロバート・グラスパーは間違いなく先人達には無い新しさをもって、ジャズという音楽を。腕組みしたり顔の好事家だけが集うジャズ喫茶、あるいは莫大な金額をもって作られた自宅鑑賞室の中に閉じ込めておくことなく、クラブ音楽愛好家やヘッズ達にもジャズとその楽しさを伝道している。
 いまだそれを更新するための大きな歩みを続けている。ジャズ音楽の、現在における歴とした継承者の一人である。そう考える。