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M.ZUIKO DIGITAL ED 40-150mm F2.8 PRO

 夏の間の忙しい時期を乗り越えた自分への、自分からの褒美として。
 そうでもしないと、自分などに賞与や寸志、鼻薬や人参の類をくださる存在などこの広い世界のどこにも存在しないので、自ら自身への褒美としてカメラのレンズを一本。

 発売され一年以上経過しているものの、誇張抜きで良い評判しか聞こえてこなかったオリンパス製の望遠レンズ「M.ZUIKO DIGITAL ED 40-150mm F2.8 PRO」を購入。

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 以前にはフォクトレンダーのNOKTON 10.5mm F0.95なんて、客観的には色物の類に入るレンズを購入し、しかもいまだ愛用し続けているように、はっきりと望遠よりは広角の方が性にあう。写真に限らず落書きをしていても広角気味の絵を気がつけば描いているように、どちらかといえば望遠はそこまでして求めようとは思っていなかったものオリンパスの40-150mm F2.8。

 「価格がやや高額である、ただその一点を除けば非の打ち所なしの銘玉」「他社のフルサイズ一眼を使用していた者も、このレンズを中心に撮影環境ごと移行したとしても、けして後悔はさせないだろう」「コンパクトかつ超高性能。本来なら矛盾する要素を見事両立させた、デジタル時代のメルクマールとなるべき望遠」等等、いわゆるステルスマーケティングに相違ないと勘繰るくらいの高評価を、しかもいまだに受け続けているレンズを。
 本当にそんなものなのか、実際に手にとって試してみるのによい機会と購入。

 そしていくら銘玉と謳われるものとしてカメラのレンズなんてものは、保管庫に後生大事に収納したまま愛でるためだけに存在しているのではない。やはりカメラ本体に装着して振りまわしてなんぼのものだと思うので。
 さっそく外に持ち出し撮ってみた。

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 40-150mm、35mm判換算で80-300mm相当。仮にフルサイズでと想像すれば持ち歩くのに相応の覚悟が必要な構成も、覚悟も三脚も一切必要無く手持ちで気軽に撮影できる。
 センサーサイズの物理的な小ささから、他社がハイアマチュア、プロ向けに用意した35mm判の規格に比べ、マニア諸氏大好物の「ボケ味」の点では見劣りするかもしれないが。逆に、センサーサイズの小ささを活かし望遠撮影に関しては他社のハイアマチュア、プロ向けの同仕様に比べ遥かにコンパクトな作りにすることが出来る。
 オスカー・バルナックの思想を継承し設計されたといわれる規格、マイクロフォーサーズを考えてみると。口にあうあわないを抜きに同規格を使っているのだから、良い望遠レンズの一本は所有し使ってみるべきなのかも。

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 屋外に持ち出しさんざん振り回しても肉体的な苦痛は皆無。逆に今まで撮れなかった画が撮れるようになった精神的充足のみを感じるM.ZUIKO DIGITAL ED 40-150mm F2.8 PROを使って、そう思った次第。

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 さあ次は花を撮ろうか月を撮ろうか。

「好き」と「マニア」の彼方此方

 このサイトを始める数年前からカメラ。

 銀塩の感光特性を利用しレンズの向こう側の情景をフィルムへ写しとる作業を、半導体を使用した固体撮像素子が取って代わり。レンズの向こう側の情景、すなわち光の情報を撮像素子が電気信号に、そして画像へと変換するデジタルカメラがフィルムカメラのオルタナティヴとしてすっかり定着し。
 のみならず、フィルムカメラの中核要素であったレフレックスミラーをばっさりオミットし、ミラーを介さず光の情報をそのまま撮像素子に投射する。デジタルならではの設計思想で作られた「ノンレフレックスカメラ」あるいは「ミラーレスカメラ」と呼ばれる製品も新しい潮流として市場に流通し始めたあたりカメラに関心が向き。

 一台目を購入した頃はデジタルカメラのコンパクトさと平易さに所有した喜びも相重なり、何処かにいくたび何かにつけては写真を撮り。撮った中の気に入ったものを御丁寧にプリントアウトし、家人などに見せては悪く無い反応をいただいていたのが。
 最初は屈託なく「ただ好きだから」「楽しいから」の気持ちの赴くままだったのが。徐々に思いを拗らせ、やれ焦点距離だのそれF値だの瑣末なところにばかり執着するようになり、いつしか膏肓に入る。余人はおろか当人にも手の施しようのない状態へと。

 以前はそれなりに反応を示していた筈の家人に、カメラやレンズの話を向けても「勝手にすれば」「小遣いの範囲内で好きにしたら」の言がかえってくるようになった時にはっきりと自覚した。

 カメラに限らず、おそらくは趣味関心ごと習い事おおよそ全てのものに通底しているのだろうが。
 始めた頃は、好きと楽しいだけで満ち足りる朗らかな光に満ちた地点で、朴訥にただ行為そのものをありのまま享楽していた筈が、いつのまにか原初の楽園に後ろ足で砂をかけ。倨傲傲語と虚仮威しの綾なす「マニア」という餓鬼道に堕していたことに。

 鼠算式に膨れ上がる承認欲求に引き換えて失い、二度と取り戻すこと敵わない初心と、いまだ初心を保ち続けている存在に相対したとき、羨望と羞恥を抑えることも出来ず。
 カメラに引き寄せて鑑みるに。写真を趣味と称する野郎連中の多くが、一時流行り言葉になっていた所謂「カメラ女子」に対して「空と猫とヴィンテージフィルターとYシャツと私www」等あげつらい冷笑を向けていたその要因のひとつに。上に記した初心を保ち続けている存在への、初心を失ってしまった者なりの憧憬の感情の裏返しも含まれていたのでは、内省を踏まえ憶測する。

 また。徹底して「マニア」を掘り下げていくと、追い求め突き抜けたその先には「一流」の高みがあるのを知りつつ、しかし自分自身は到底一流になれないことを理解する程度の批評眼を残しながら。一流の目に入ろう気に入られよう取り入ろうと、次第に手数より小手先や口数が増え、有厚無厚おべんちゃらばかりが上達し。

 日なたでは初心を嘲笑し陰では一流を当てこすりつつ。ひとたびペダンチズムの徒が集えば蒟蒻問答を出しあい「やつがれはこんなに貴重な道具を持っている」「小生はこの道に、これだけの手間とお金と時間を費やした」あるいは「著名な作家先生の作風にならって、手本をなぞってこしらえた拙の力作、悪い理由がない」「高名な技術解説書に照らし合わせれば、貴殿の労作は全く正しくない」「否々。この業界で名を馳せた、かの何某さんとも面識があり実際に言葉を交わした間柄である手前が、尊公よりも劣っている訳がない」そう、貸しスペースや居酒屋喫茶店、コミューンあるいはインターネット空間内で自己顕示とマウンティングにあけくれる立派なマニアの端くれになっていることを知る。

 ただ「好き」。それだけの動機でおこなっていた頃のほうが遥かに射程の大きな、かけがえのない美点を持っていたことを自覚しながら。もう、そのような佳処を二度と取り戻すことは出来ないのも把握しながら。
 馬の耳に念仏蛙の面に小便。性懲りもなく、わずかな時間の暇を見てはいつか購入したいレンズの諸元表を幾度となくながめる。そんな、俗物根性の上に教条原理権威主義で建屋を作り、おまけに悋気やら自尊心やらを並べ立てた「マニア」という餓鬼道。しかしこれはこれで居心地がよいもの「ぬるま湯なのだから心地よくて当たり前」に、どっぷり浸かるのでした。