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ボークス「ABSOMEC non GTMカイゼリン」-接触篇-

現物それ自体は昨年末手元に届いていたが、わたくし自身の家業の都合で年が明けても年度自体をこえるまでまとまった時間を用意することは難しそうだったので。
箱をあけるのも組み立てるのも次年度になってからと決め、おそらく確かにカイゼリンが入っているだろう大きなダンボール箱をいまのいままで放置してきたのですが。
4月をむかえ前年度の仕事に関するあれやこれやもなんとか片付け、多少なりの時間が出来たのでようやっと開封いたします。

まずは収納されている各部品を検品。

組み合わせられたパーツのチリの小ささもエッジの立ち具合も、そこいらの模型や玩具の類に比べれば精度も高く細かい作りなのはこの段階でもはっきりわかる。

しかしながら模型史上に未来永劫その名を刻むような普遍不朽のモデルになっているかと問われれば。あくまで個人的な感想、私見でしかないが残念ながらそこまでのものでは無いというのが正直な意見。
重ねて一個人の所感だが各部に使われているABS樹脂素材は、ひけもそれなり目立ち。たとえABS樹脂を採用するにせよ、結果それが価格に反映されたとしても公差を厳しくするなど対策はあったよう感じる。

重ね重ねあくまでも個人的な愚見に過ぎないが、この定価の倍以上。なんであれば十倍のプライスタグを掲げてもよいから。パテック・フィリップ カラトラバと並べても全く見劣りしない、機械式時計における雲上ブランドの如き。
誰もが手に入れられる訳では無いが、ショーケースや写真で其れを眺める都度溜息のもれるような曠古稀覯の存在を目指して欲しかった。

とはいえ重箱の隅を楊枝でほじくるのは以上。以下は好ましく感じる箇所をあげながらいよいよ組み立ててゆく。

「GTMカイゼリン」パーツ確認&組立て動画(前編)

「GTMカイゼリン」パーツ確認&組立て動画(後編)

組立作業自体は予め殆どのパーツが組み合わされている上。発売元のボークス(Volks Inc.)から組み立てに際しての参考動画も掲示されているので、手にした多くのかたにおかれても比較的容易に完成させられる筈。

予め組み立て済みの、手の部位はエッジの立ち具合も申し分無く。もしも仮に同モデルが大手メーカーから発売されていたと想像すると製造コストは抑えられ、近しい品質ひょっとしてもう少し高品質かつ安価なマスプロダクションモデルに仕上がっていたのではとも思うが。
今の御時世、大企業になればなるほど重くのしかかるコンプライアンスに配慮すれば斯様にエッジの立ったパーツは、言葉通り「角を矯めて牛を殺され」。少量生産高額製品ならではの美点を失うことになるのではと考える。

クロームメッキ。おそらくは装飾クロムメッキが施された腰部は通常のプラモデルや玩具に施されたメッキパーツとは別次元の美しさ。

また、通常部品と透明部品が組み合わされた部位の仕上がりも美しい。

人型機械と其れをかたどった玩具にとっては最も顕要であろう頭部の出来は特筆すべき箇所かと。

そんな空言戯言をならべているうち小一時間程で完成。

以下無用のことながら。
世のプロダクトモデルには雑にわけて二種類。ロールアウトされた時点が完成形のものと、けして手を抜いて設計された訳では無いがそれでも生じる問題点を改修しアップデートされてゆくものと。

前者で真っ先に思いつくのがマクラーレンF1。F1レースの世界において数々の傑作車を世に放ったゴードン・マーレイが「20世紀最後の工業製品として、10年、20年後にも見劣りすることのない究極の自動車」を主題に公道専用車として設計しマクラーレンによって1994年に市販されたマクラーレンF1。

カイゼリンの生みの親、永野護の紡ぐ物語『ファイブスター物語』と自動車と、どちらも同じくらいの熱をもって語れる好事家ならば、総じて全てのかたは読んだことくらいあるだろう『幻のスーパーカー』。福野礼一郎の名著『幻のスーパーカー』に収録されているマクラーレンF1の試乗記事「カウルのなかのF1(McLaren F1)」から引用すると。

「マクラーレンF1のコクピットから這うようにして降り立った私は、何となくフロントのサービスリッドを開けてなかをのぞき込んでみた。ブレーキフルード、ラジエター・クーラントの補給用サービスキャップ、KENWOOD製の特別製小型10連CDオートチェンジャー、ファコム製ツールを収めた革の小袋などが、まるで役人の机の引き出しの中のように整然と並んでいた。ウィンドーウォッシャー・フルードと書かれたブルーの丸いフタを回し、はずして手に取った。それがNC制御マシニングセンターで切削加工されたチタニウム合金製品であることに気づいたとき、こんなクルマはもう二度とこの世に生まれてこないだろうと確信した。」

以上引用終わり。と、工場からシリアル番号第壱号がロールアウトされた時点でアガリのものもある片方で。

「最新のポルシェは最良のポルシェ」のキャッチコピーを持つポルシェに代表されるように。
とはいえこの言葉は企業体としてのポルシェAGのイメージ戦略で、始祖フェルディナント・ポルシェが括弧付きで「言ったそうな」言動をあえて精査せず流布するにまかせた結果らしいが。
ともあれポルシェやメルセデス・ベンツに代表されるドイツ車の多くは、とりわけ愛好家から黄金期と称される1980年90年代前後のドイツ製ハイパフォーマンスモデルは年次改良のたびエンジンやギアボックス、サスペンションのセッティングや取付部の補強など改修を重ね続け。同じ車であっても初期生産モデルと最終生産モデルとでは別物と言っても大袈裟ではないくらい。
信奉者をして「ドイツ車を買うなら最終生産モデルに限る」と言わせしめるほど、初期設計通りに生産されたものを完成形とはしない精神がドイツ車のものづくりの支柱になっていたそうだが。

ボークスから第一弾モデル、GTMカイゼリンが発売されたイージーアッセンブル・スーパークオリティモデル。これがマクラーレンF1では無くドイツ車黄金期のハイパフォーマンスモデルのごとく、寄せられたユーザーからの様々な意見を汲み取りさらなる品質向上と改善を重ねてゆくものであることを願いながら駄文を締め。
さておき玩具本来の趣旨。組み立て完成形を愛で遊ばせていただきます。

『捜索者(The Searchers)』

 映画『捜索者(The Searchers)』。

 ジョン・フォードがメガホンをとりジョン・ウェインが主役を演じた南北戦争終了から3年後西暦1868年のアメリカ西部地方を舞台にした1956年公開の劇場映画作品。
 そもそもことの起こりは、今年初めにRDR2『レッド・デッド・リデンプション2(Red Dead Redemption 2)』を。
 アメリカ合衆国の西部地方開拓時代当時、フロンティアと呼ばれたアメリカ未開拓地を舞台にした物語、通称西部劇。を題材にした家庭用ゲーム『レッド・デッド・リデンプション2』を終えてからもずうっとこのゲームの事が心に残り続け。

 劇伴音楽集を購入したり同作が作られるにあたって参考にされた作品など。明朗快活な勧善懲悪の物語に収まらない西部劇を巡ってゆくうち、フロンティアの時代とその終わり。そしてその後のアメリカと幾許かの同国製コンテンツに通奏低音として綿綿刻まれている「居場所を失った、消えゆく男たちの物語」を了得し。
 さらに自分なり掘っていった末たどり着いた映画が『捜索者』。

 DVD版を。ブルーレイ版をと最初は考えていたが日本語吹き替えに対応した国内流通版はDVDしか無いことを知り、注文したDVD版が先日届いたもので取り急ぎ鑑賞したのだが結果予想を上回るものだった。

 今作に関する評釈をざっと掻い摘むと、公開当初は興行成績も評論家からの反応も。曰く「お話が暗すぎる」「ジョン・フォードとジョン・ウェインには偉大なるピルグリム・ファーザーズの精神を否定するようなものを撮ってほしくない」等散散だったもの、やがて時代ととも評価は覆され現在ではフランス『カイエ・デュ・シネマ(Les Cahiers du cinéma)』誌の「史上最高の映画100本」第9位に選ばれ、本国アメリカ映画協会でも「最も偉大な西部劇映画第1位」に選出されたと。

 また批評家筋ばかりでなく同業者からも。
 『タクシードライバー』の脚本を手掛けたポール・シュレーダーは『捜索者』から強い影響を受け、ロバート・デ・ニーロ演ずる主人公トラヴィスの人物像を造形し。後に同作を翻案し現代アメリカを舞台に換えたかたちの『ハードコアの夜』を自ら監督している。またデヴィッド・リーンは同作の、まだ開拓時代の面影が残されていた大西部の光景をフィルムに写し取った風景描写に強い感銘をうけ『アラビアのロレンス』を制作するにあたり、何度も『捜索者』を鑑賞し風景撮影の参考にした。
 等等同作の西部劇というジャンルに収まらない映画としての先駆性普遍性を称える逸話には事欠かないのだが。

 他者の評価や反応などはどうだっていい。とどのつまりはわたくし個人がどう感じ思ったかだ。
 シネフィル未満の映画好きがぼんやりと想起する類型的な西部劇。物語のクライマックス、絶体絶命の危機的状況に騎馬隊が駆けつけ事態を解決するわかりやすいハッピーエンドでも無ければ。現代劇に特有の、あえて露悪要素を殊更丹念に描写する「観客の心の奥深くまでけして消え去る事なき爪痕を刻んでやろう」と、作り手の前のめりな自意識が鼻につく陰惨苛酷さとははっきり違ったある種の暗さと後を引く苦さ、だがけして不快でない苦さがここ数年あたりの心情と重なり混じり合ってすうっと入っていった。

 とはいえ2020年も間近に迫った今の目でみれば60年以上前に作られた劇場映画。マカロニ・ウェスタンの台頭やサム・ペキンパーの登場を待つのは当分先となる頃に作られた、所謂西部劇というジャンル映画の文法を大きく逸脱してはいない作劇は、ひどく牧歌的でいささか冗長にすら感じられるのも客観では理解できる。
 例えば劇中の幕間にあたる箇所。ジョン・フォード演じる主人公と彼に反発しながら捜索の旅を共にするジェフリー・ハンターの旅の途中の一幕。ネイティブ・アメリカン相手に取引をしながら情報を得る描写など、再映画化を仮定したならば真っ先に省略される部分かもしれない。だが、マックス・スタイナーの手掛けた詩情溢るる劇伴音楽と相まって忘れられぬ一場面になっている。
 あるいはもしも仮にタランティーノが製作を務め、イーライ・ロスが『捜索者』のリメイクを手掛けたとするならばモダンな手触りかつ括弧付きでの「良くまとまった」作品へとリノベーションされるかもしれないが、それは求めていたものとはかけ離れてしまうのでは。あくまで愚考でしかない私的な感情にすぎないが。

 ともあれこの作品に対しシンパシーのような曰く言い難い心の動きを得たのも、そして製作直後本国での拒否的反応と反比例するように高まっていった評価も、つまりはその後幾度も舞台を変えプロットを変えて語られ続けてゆくこととなる「居場所を失った、消えゆく男の物語」をフィルムに焼き付けた最初期の映画だったからではと。
 だからこそ公開当時アメリカにおいては、薄薄わかってはいたが明示化されてほしくはなかったからこその拒否反応であり、わたくし個人においてはミッドエイジクライシスをはっきり自覚しはじめた年齢に鑑賞したからこその深い感受であったと。