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小松未可子の『e′tuis』は、本当に音割れが酷いのか

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 先日ツイッターでつぶやいたように。

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 キングレコードから発売された、小松未可子のアルバム『e′tuis』の音の状態、音割れが酷いと発売当初話題になっていたらしく、本当にそうなのか自分でも確かめてみようと。
 それ以上に。ツイッターで知った、同アルバム製作に携わっている人物やスタジオの名前が興味深いものだったので、実際に聴いてみようと購入。

 最初に手持ちの、異なる性質のヘッドホンそれぞれで一聴したところ。ソニーのMDR-CD900STでは違和感を感じるところはなかったが、同じソニーのMDR-XB700にヘッドホン用アンプをつなげて最大音量で聴いていると、歌声の張っている部分等ところどころで微細な違和感。あくまでも注意して聴けば「そうかもしれない」と感じる程度の箇所がある。

 とはいえ、個人の印象からくるぼんやりとした感想をぐだぐだ並べ立てていても仕様がないので、実際の音情報を確認してみようと。編集ソフトを取り出し、アルバムの音源を取り込み可視化された音情報を見てみた。

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 上にあげた波形がアルバム収録曲「Sky Message」の可視化された音情報。一見すると音割れを起こしやすそうな形状ではあるが、この状態ではまだ判断できないので二段階にわけ拡大して見てみる。

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 一番上がイントロからアウトロまで楽曲全体を可視化したもので、その中の赤色に色分けした箇所「ひょっとして、この部分が音割れしているのかもしれない」と感じた箇所を拡大して下に表示する形で見てみる。
 拡大してみると部分によってはCD-DA、コンパクト・ディスク・デジタル・オーディオのフォーマット許容範囲に近いところまできている(この波形の頂点が、フォーマット許容範囲の限界地点にべったり張り付いたまま飽和している状態、クリッピングといわれる状態になると音割れを起こす原因となる)が、破綻はしていない。
 思慮深いリスナーによっては「波形の頂点が少しでも触れた時点で音割れなのだ」と感じるかもしれないが、おそらく大半のリスナーにとっては許容の範囲内。クリッピング寸前の状態でとどまり続けているので。
 こういった傾向の音を好まないリスナーもいるかもしれないが。だからといってミキシング、マスタリング作業にあたって注意を払われていない、エンジニアの怠慢がありありと見て取れる手抜き音源というわけではない。整音作業が施されている。

 ここから推測できるのは、音源それ自体の欠陥。製作者側に起因する問題よりも、リスナー側の環境によるもの。スピーカーやヘッドホン等出力機器それぞれが持っている個性というか味付けと音源との相性により、場合によっては違和感をおぼえる。あるいはMP3やAAC等の圧縮音源に変換する際の設定によって生じる問題なのでは。
 楽曲製作者やサウンドエンジニアに起因する問題、送り手に瑕疵があったというより、リスナーの方に起因する問題だったのでは。

 あるいはアルバムのミックスダウン、マスタリングを担当したエンジニアの「このアルバムを購入するリスナーの多くは、きっとこれこれこういった方向性の音を好み、そのためのリスニング環境を作っているに違いない」と想定して仕上げた音と、実際にアルバムを購入したリスナーの好みの音と、それを聴くために作った環境との齟齬から発生したものでは。
 そう自分なりの憶測をもって、今回の雑文を終わりにしようと思うが、以下追記として。

 『e′tuis』のクレジットを見ると、発売元こそキングレコード。かつては演歌やアニメソングの老舗として、今ではAKB48関連で有名なレコード会社。
 発売元こそキングレコードとクレジットされているものの、実際の製作にあたっているのはレコーディング、ミックスダウンをキング関口台スタジオ、ホワイトベース・スタジオ、2467スタジオ等々場所も、そしてエンジニアも多岐にわたり。
 そして、異なるスタジオやエンジニアによってレコーディング、ミックスダウンされた楽曲は。サイデラ・マスタリング・スタジオで森崎雅人の手によりマスタリング作業が施されていることが判り。

 自分を含めて、少しだけ物事に詳しい気持ちになっている半可通は。CDジャケットに表記されている会社名を見て「このレーベルの音はどれも海苔波形だからなあ」等としたり顔で、物事の道理が判っているかのように語りたがるものだが。
 そういった中途半端な知識からくる先入観と決め付けこそが、物事の判断を間違ったものにし。ひいてはこれから有りうる新しい素晴らしいものとの出会いを阻害するだけだと。
 改めて、自戒をこめて思った次第。

いわゆる写楽問題について「なぜ誰も認めなかったのか、認められなかったのか」

20140515

 先日。浮世絵師、東洲斎写楽について記された本『写楽の深層』を読み終え、これをきっかけに写楽。というよりも「写楽は誰なのか」をめぐる、いわゆる写楽問題への自分なりのぼんやりとした雑感を一度まとめておこうと以下に記す次第。

 十年以上前から浮世絵に興味を持ち始め。といっても自分の場合は「萌え」「萌え絵」というものを考えてゆくと、どうしたって江戸時代中期から後期にかけて大量に作られ「錦絵」。当時はそう呼ばれた多色刷りを基本とする木版画。いわゆる浮世絵に行き当たる。と、識者や市井の愛好家の方々からすれば噴飯ものの、正道を大きく外れた動機が出発点なのだが。
 そして、正確には肉筆で描かれたものなども総称しての浮世絵だが、ここでは絵師一人が下絵から着彩まで全てを手がける肉筆画ではなく。基絵を手がける絵師、基絵を版木にする彫師、出来上がった版木を印刷する摺師と、分業によって大量生産される木版画を浮世絵として進めるものの。

 とにもかくにも浮世絵に興味を持ち、あれやこれやと手繰り始めてゆくと、ほぼ全てが一度はそこに行く。中にはそこに留まり続ける者もけっして少なくないであろう、写楽。東洲斎写楽。

 写楽について、ざっくり説明させてもらうと。
 東洲斎 写楽(とうしゅうさい しゃらく)とは、江戸中期に活躍した浮世絵師。寛政6年、1794年5月から翌年の寛政7年3月にかけての短期間に、蔦屋重三郎の営む版元、現代でいうところの編集プロダクションと出版社を兼ねた存在である、版元の蔦屋から木版による多くの人物画を世に出し。とりわけ初期に出版された、当時の人気役者を題材にした作品は、同時代の他の浮世絵師のものとははっきりと異なる作風から、評されて曰く。
 「これまた歌舞伎役者の似顔をうつせしがあまりに真を画かんとて、あらぬさまにかきしかば、長く世に行われず、一両年にして止む」。
 以上括弧内は享和2年、1802年に出版された浮世絵解説書『神宮本浮世絵考証』からの写楽に関する記述。これを意訳すると「歌舞伎役者の人物画を題材にしたが。それまでの常識であった当人より美しく誇張して描くやりかたをよしとせず、むしろ役者当人には面白くない部分を誇張して描いた為、当の役者達の不興をかい、わずか一年程の作家活動だった」といったところか。と、評判になったとはいえ当時の人気作家へのそれとは異なり、あくまでも色物としての人気であったと評され。
 いまどきの流行音楽に例えると、売れ筋のものとは毛色の異なる楽曲が面白がられスマッシュヒットしたものの、次作以降が続かなかった一発屋のような評価だったようで。初期作以降はさほど評判を呼ぶこともなく、いつのまにか写楽の名も、その作品も打ち捨てられ。
 本当に作品が評価されるようになったのは後世になってから。1900年代の美術研究家、ユリウス・クルトの著書『Sharaku』を中心に、その大胆な構図や人物のデフォルメが海外で大きく評価されることになり、逆輸入のような形で日本でも写楽の作品への評価が定着した。
 以上、ざっくりとした説明なのだけど。

 とはいえ、こと近代から現代における日本での写楽への関心は。その作品と作品への評価そのものよりも、突如として浮世絵の世界に現れ、忽然と姿を消した謎の浮世絵師、写楽その人へと向けられ。

 それには、上記のように活動期間が極めて短期間だったのに加えて。活動中も活動後も、本名(東洲斎写楽は雅号。今でいうところのペンネーム)は決して明かされることがなく。天保15年、1844年に出版された当時の浮世絵や浮世絵師を紹介した『増補浮世絵類考』を、写楽の人となりに関する唯一の記述。
 「俗称斎藤十郎兵衛、八丁堀に住す。阿州侯の能役者也」。以下意訳すると。
 「写楽の実名は斎藤十郎兵衛。神田と日本橋の境は八丁堀に住まいを持つ、阿波徳島藩主蜂須賀家お抱えの能役者が、浮世絵を描く際に用いたペンネームが東洲斎写楽である」。
 このような短い記述以外、写楽本人に関する記録が一切残されていない為。
 加えて、作品の真贋を判別するにあたっての極めて大きな要素である、本人による肉筆画や木版画の基絵(本人の筆致が明らかなものさえ現存してあれば。筆の運びや線の強弱、耳や指先の描き方といった描き手各々の手癖を基に、それが本人の筆によるものか否かをかなりの精度で鑑定することが出来る)が存在しないといわれていた為。

 写楽が何者であるかについて。
 明治から昭和初期にかけて活躍した版画家の山村耕花が、東京朝日新聞に『写楽の捜索願』との題名で写楽の正体に関する考察文を寄稿したのをおそらくの出発点として。以降は松本清張、池田満寿夫、横山隆一、今東光、高橋克彦、フランキー堺、梅原猛に石ノ森章太郎。最近では島田荘司といった錚々たる作家文化人が「写楽の正体は浮世絵師、歌川豊国の別名義説」から葛飾北斎の別名義説、喜多川歌麿、司馬江漢、谷文晁、円山応挙、山東京伝、歌舞伎役者の中村此蔵、洋画家の土井有隣、戯作者の十返舎一九、俳人の谷素外説エトセトラエトセトラ。
 各者各様の考察や奇想をもって「実は何某こそが写楽の正体である」と自説を主張し続けてきた経緯があったのだが。

 ところが、写楽の正体をめぐる論争が急展開をみたのが数年前。
 ギリシャのギリシャ国立コルフ・アジア美術館が収蔵していた浮世絵を日本の研究者グループが調査した際、写楽の署名が入った肉筆人物画が発見され。
 題材にされている絵の内容からも、そして省略強調の技法も、なにより写楽作の木版画全てに共通している耳の描法も、発見された肉筆画と今まで流通してきた木版画とが共通している為、ほぼ間違いなく写楽本人の手による肉筆画であろうとの鑑定がなされ。
 そしてそれ以上に重要だったのが。この肉筆画の発見により、これまで「この人物こそが写楽の正体である」と目されてきた作家の筆致のどれとも、肉筆画のそれは異なっていた為、消去法から『増補浮世絵類考』に記されていたように、やはり斎藤十郎兵衛こそが写楽なのだろう。ほぼ結論づけられるようになったのが最近の話。

 さて、先日読了した秋田巌 著『写楽の深層』。
 いわゆる写楽問題に、おそらくの終止符がつけられて以降の写楽本ということもあり、写楽の正体は能役者斎藤十郎兵衛であろう、との立脚地から考察がなされ。そして帯文句に「なぜ、描くのをやめたのか」と書かれてあるように。写楽が何者であるかはさして重要な問題ではなく、なぜ彼は筆を執り、筆を置いたのかについての分析と推察を、著者の出自を基に。
 チューリッヒ・ユング研究所卒業、ユング派分析家国際資格取得を経て、日本ユング派分析家協会理事、日本ユング心理学会役員を務めている著者が、ユング心理学を基に。なぜ彼は素性を隠して写楽を名乗り、短期間のうちに大量の人物画を描いたのか。なぜ彼は極めて短い活動の後、筆を置き二度と筆を執ることがなかったのか。
 「自己絵画療法」。ユング心理学派の日本における高祖、河合隼雄が国内の心理学会へもたらした心理療法、箱庭療法の応用であろう自己絵画療法の用語を軸に考察し。
 彼が素性を隠して作品を描いた理由として。彼自身は筆を執って有名になりたい訳でもお金が欲しかった訳でもなく、絵を描いたのはひとえに、不安定で破滅の際にあった自己の精神をみずから治療する為であった。
 その為に彼は「写楽」というペルソナ(これも箱庭療法と同じくユング心理学の産物である)をつけ、短期間のうちに驚異的な量と独創性とを両立させた絵を描き、描くことによって自己治癒を果した。であるから短期間のうちに、その精神状態の変化と共に、急激に画風が変わっていった。
 そして彼自身の精神状態が穏やかに、快方に向かっていた後期のものは、鬼気を宿していた初期作品への評価とは対照的に、作品としては面白味のない凡庸なものと酷評された(しかし、自作が他者からどのように思われているか、作品への評価など彼自身にとっては、じつはどうでもよいものだったのかもしれない)しかるのち自己の精神変調を治療する為の創作活動と、当初よりの目的を達成してからは二度と写楽を名乗ることも筆を執ることもなかった。

 さらに、彼の精神不安定を引き起こした原因は「性」。セックスに関するものである(性をからめた精神分析はフロイトのもの、とイメージされがちだが。ジグムント・フロイトを学術的な意味での直兄に持つカール・グスタフ・ユングと彼の後を継いだユング心理学派も、精神分析における性の意味あいを軽視している訳ではない)そう推測し。性的抑圧が彼を創作に向かわせた動機であるとする論拠として。
 当時の、人物を得手とした殆ど全ての絵師が通常の作品よりも作品単価が高いとの現実的理由から(このあたりの事情は昔も今も変わらないのかと)春画。いわゆるポルノ絵を手がけていたにも関わらず、なぜか写楽は一枚の春画も描いていない事実。そして、彼がもっぱら題材にしたのは当時の歌舞伎役者。ほぼ例外なく男性のみが許された職業で、女性役も女形といわれる男性が女性を演じていた、歌舞伎の世界に生きる男衆ばかりを描いていた事実を根拠に。
 彼に筆を執らせた動機は、自身の抱える性的抑圧の解消と昇華にあった。との推察にいたる内容は膝を打つものがあった、一読に値するものであったが。

 しかし個人的には、いわゆる写楽問題。
 写楽の正体をめぐる百年近い論争が、一番最初の時点で「写楽イコール斎藤十郎兵衛」の正解が提示されていたにも関わらず。なぜ斎藤十郎兵衛説は早々に否定され、以降顧みられることなく打ち捨てられたままだったのか。
 その間各々一家言持った識者が、そう確信するに足りうる論拠をもって様々な「オレの考えた写楽」説を発表しているが。識者各位は、なぜ斎藤十郎兵衛説を精査する事なく独想を推し立てたのか。自説と各々がそうに違いないと見立てた写楽の正体に何を託したのか。

 百家争鳴の盛況を呈した写楽問題。他分野でいえば「邪馬台国は何処なのか」問題とは異なり、ひとまずの決着をみたといえる今だからこそ、問題の始まりから帰結までを俯瞰した一冊を読んでみたい。そう思うのは自分だけなのだろうか。