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沢村慎太朗 (著) 『自動車問答』

20160702

 数ヶ月前に文踊社から刊行された、自動車評論家の沢村慎太朗の筆による『自動車問答』。
 内容自体は昨年惜しまれつつ休刊した自動車雑誌『オートカー・ジャパン』の巻末で長年にわたって連載されていた、自動車に関する読者からの様々な疑問に著者が答えるかたちの記事を一冊にまとめたもの。
 こう書くと閉店前の棚浚え売り出しや、売れ残り商品を袋に放り込んだだけのお手軽福袋の類のようだが然にあらず。
 古いものだと十年近く前の記事も含め、それでも2016年の今になってあえて出版するのには然るべき理由があるように感じた。

 では自分なりに感じたその理由を言葉にしてみると。
 多少なりとも自動車に興味のある方ならば誰もが記憶に新しい、昨年末におきたフォルクスワーゲン(VW)社によるディーゼル車排ガス規制不正問題。
 大局的にみれば、大企業のモラルハザードや創業家、ご存知のようにVW創業者一族ポルシェ家と非同族閥との対立構造、あるいは所謂括弧付での「環境問題」に対する欧州連合と米国との指針やそもそも考え方の埋めがたいズレ等、歓談の席やアフターパーティーで尤もらしく解説すれば皆に良い顔の出来る語り甲斐のある内容なのだろうが。
 こと極東島国の自動車業界、自動車ジャーナリズム界隈においてはそんな瑣末な事よりももっと重大な。

 今までは舶来礼賛、とりわけ「独逸製は精密重厚にして品質確か、儲けと費用対効果しか頭に無い島国ニッポンの軽薄な自動車産業がどう足掻いても太刀打ちできないモノ作りへの確固たる思想に裏打ちされ作られている」とのドイツ製品信仰を錦の御旗に。
 「VWゴルフ7のドアを開きシートに腰を下ろしただけで唸り声がでた、ハンドルをにぎって数メートル進めただけで笑みがこぼれた」「『最善か無か』『安全性能が全てに優先する』『最新は最良である』の哲学を根底に作られているドイツ車の領域に日本車は十年、いや百年経っても届かない」などなど美辞麗句を並べたて続けてきたのが。
 上述の不正問題に際し、取材や試乗を通して誰よりもVWの事を知っている立場だからこそ、こういう時こそジャーナリズムの本分にしたがい舌鋒鋭く件の問題に切り込んでいくのかと思いきや。本国本社、あるいは日本法人から「この部分に関しては論じてよし、この部分に関しては絶対触れてはならない、そう明確なガイドラインが策定されるまでは発言を慎むように」との箝口令が発せられたのでは、かんぐってしまうくらい知らぬ存ぜぬを決め込んでいた。
 そんな自動車雑誌や評論家に偽装した御用メディア提灯ライターの類が「この記事は広告記事です」の表記を隠し、あたかも何のバイアスもかかっていない公明正大な評論であるよう振舞ってきた。
 大きなところでは「広告費」や「協賛」というかたちで、小さなところでは「試供品」や「貸与」あるいは「御車代」といった名目の鼻薬が常習化していた。全体論では無いにせよ自動車ジャーナリズムの抱える欺瞞がVW排ガス不正問題を切っ掛けに顕になった今だからこそ。

 ジャーナリズムの問題に限らず『自動車問答』で語られている内容の多くは、今この時取りざたされている題目に際しても通用する、射程の長いものだからこそ昔の記事も一冊にまとめ刊行されたように感じた次第。

 最後に個人的にそう感じた記事のひとつを一部引用して、この雑文を締めたいと思います。

 以下引用。

 自動車雑誌は、いいことばかり書いているものばっかりですが、みな自動車会社に接待されるので、ああいう風に褒めるのでしょうか。
 【神奈川県横浜市 匿名希望】

 ご質問いただいたのは14歳の読者のかたで、他にも同じようなご内容を、同年齢のかたから以前いただきました。この世界の中にいるおれとしてはスルーしたほうが楽な。微妙に答えにくいテーマなので、しばらく悩んでいたんですが、ご質問が重なったのを期に思い切ってやってみることにしました。
 確かに新型車の試乗会とかでは、試乗時間によりますが、ご飯を出してくれたりします。遠い土地でやったりするときなどは泊りがけになりますから、その場合はアゴアシマクラ(食事代と交通費と宿泊費)をもってくれたりするときもある。なのですが、そういうのが試乗評価と直接関係するかというと、本質的にはそういうことではないと思っています。というか、コトはそう単純ではないです。つっても、最近よく使われる「大人の事情」て話とはちと違います。まあ聞いてください。

 中略

 これはまずい。それは間違ってる。自動車メーカーのひとたちにどう思われようと、義理も人情もブッチギッてヒトデナシになるしかないんです。義理人情を踏みにじるヒトデナシはきっとロクな死にかたしねぇでしょう。でもおれはそう覚悟を決めました。だって、おれの仕事は読者の皆さんにクルマのことを伝えること。それで原稿料を貰ってるんですから。その原稿料は、元はといえば読者の皆さんが本を買うとき払ってくれたお金です。実際の雑誌の収入源は広告料も少なくない割合を占めますが、それでも実際に売れて読者に支持されてない本にお金を払って広告入れる会社はない。基本はやっぱり読者の皆さんです。であれば読者の皆さんにヒトデナシになってはいけない。そう思うんです。それは筋が違うというやつです。世間で言う大人の事情ってのは要するに妥協のことですが、これは完全にそういうものとは違う。筋道が根本的に間違ってるってことです。
 昔、先輩に「この商売は、必ずどちらかのヒトデナシになるしかない因果な稼業だ」と言われましたが、新車の試乗会にたくさん行くようになって、その言葉がシミジミ分かりました。いやあ、褒める原稿を書くほうが楽なんですよ。仮に間違った理由で褒めたり、テキトーな文章で褒めても誰も怒りませんが、間違った理由で悪い評価したり、いい加減にダメ出ししたら、えらいことになりますから。それに、心にもないホメ芸が認められると、メーカーの仕事来て儲かる可能性もあるんだとか。ヒトデナシにそういう仕事が来るわけがなく、おれはよく知りませんけど、そういう仕事がメインになると完全にメディア側じゃあないわけで、職種はPR代行業で、名刺の肩書きもそう直したほうが……。
 まあ実際の世の中は複雑で、中には本気で接待してほしいひともいるでしょうし、分かってて意図的に筋を曖昧にしてるひともいるでしょうし色々なわけですが、ヒトデナシ野郎のおれとしては、基本的にある構図はこういうことだと思ってます。

デタラメなりのそれらしさ

 いつのまにかカメラが趣味だと。臆面なく名乗れる程度にカメラへと。いやカメラというよりレンズ、所謂レンズ沼に嵌り。そして嵌ってみると、この泥沼。存外心地よいことも知り。
 そして、あれやこれやをレンズを変えつつ撮影し、部屋に戻って撮った風景を眺めているうち。
 カメラよりも遥か前より下手の横好きとして続けていたお絵かきへと。

 単に撮影したものを漫然と見ているだけでなく、お絵かきの方になにがしか活用できないかと助平根性がむくむくと頭をもたげ。
 写真からお絵かきへの活用として大半の方が同じことを発想するであろう、お絵かきの背景に。
 自分で撮影した風景を、そのままお絵かきの背景に移せば自身の意図するものに。しかも写真をそのままなぞらえれば簡単かつ効果的なものが出来るのでは。
 安易な発想のもと撮影したものを、そのまま描こうとする絵の中に写し替えようと試した矢先。しょせんそのような安直なやり方、下手の横好きの下手の浅知恵に相違ないこと明確に実感する。

 所謂スーパーリアリズム。そこまでゆかずとも具象、劇画調の絵を描くのなら判るが。
 有り体にいえば下手くそな、写実主義に則れば全く正しくない突っ込みどころだらけのデタラメな絵を、写真の背景の上にただ乗せてみたところで。
 とはいえ、イマドキの画像編集ソフトには元画像の輪郭を抽出強調したり画像の階調を減色単純化する等の機能も豊富に搭載され、それらを使えば写真をそれらしい背景画像へと変換することも可能ではあるが。いくらそれらの機能をいくども重ねたとて、根本的な問題は何ひとつ改善されない、どころか病巣をより際立たせる結果に。
 下手ともまた異なる、見た人の多くに得も言われぬ違和感や気味の悪さを抱かせるだけのものにしかならない。もっともその生理的嫌悪感を意図している「判った上であえてやっている。見るものの意識や感情をコントロールしている。観客を手のひらの上に乗せてやっている」のなら話は違うが。

 考証や方法論、現実主義に則れば悪目しかないデタラメなものにせよ、デタラメの中においてはそちらよりもこちらの方が違和感を抱かない、抱かせないため。デタラメなりのそれらしさがあるのを。
 おそらく間違いなく。お絵描きに限らず、映像映画製作、あるいは小説等の文筆活動を含め広義における創作に携わっておられる方の殆どにおかれては。言葉にせずとも、メソッド化しなくとも経験を通じて理解熟知し実践している言わずもがなのことなのでしょうが。
 こんなこともカメラを趣味にするようになって判ったことでした。

 ちなみに下のものが実際の作業に使うパソコンの画面を画像に保存したもの。画像の中の右が、いただいた年賀状の返信用の絵の、背景の参考にと自前で撮った写真。そして左が写真を参考にして実際に作った絵の背景。

20160613

 但し、そうはいっても。くどくどと戯れ言を重ねても、目にとめられた方の大半は「御託は結構だが、どんな言い訳をしても下手は下手。それ以上でも以下でもないのでは」との尤もな偶感を抱かれるでしょうが。

 下手は下手なりに。トライアンドエラーを積み重ねながら今に至っているのです。