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『人喰猪(ヒトクイイノシシ)、公民館襲撃す!』

 2009年の韓国映画『人喰猪(ヒトクイイノシシ)、公民館襲撃す!(原題「CHAW」)』。
 公開当時より、そのインパクト溢れる題名に興味を掻き立てられ。しかしながら文化文明とは程遠い、未だ隣組や村八分などの風習も色濃い自身の生活圏では当然のように映画館で上映されるわけもなく、CS放送の映画専門チャンネルで放送されるのを心待ちにしていたのだがいっこうに放映される気配もなく。
 所詮その程度の取るに足らぬ作品と割り切ろう、いっときはそう思ったもの日増し月を重ねるごと「人喰猪(ヒトクイイノシシ)、公民館襲撃す!」の言葉が頭の片隅から離れなくなり、思いきってDVD版を購入。

 さて鑑賞してみれば『人喰猪(ヒトクイイノシシ)、公民館襲撃す!』の題名が全てを物語るよう、韓国都市部より遠く離れた山村に凶暴な巨大人喰い猪が出現し平和だった村を恐怖に叩き込む。その粗筋とそこから想像される印象より良くも悪くもまったくブレない。そのタイトル通り、通俗的に「モンスターパニック映画」と括られる作品の定石を丁寧になぞらえる展開から題名に冠されるミニマムかつ土着的な山場を経て幕引きへ、そして同種映画のお約束ともいえる不穏さを残し物語は締めくくられる。この手合が好きな好事家にはお勧め、と無難な感想でお茶を濁しがちな佳作。そう片付けられるかもしれないが。

 さにあらず、あえて取り上げたのには特筆すべき点が。いや韓国映画を鑑賞したとき総じて印象に残り、本作でも興味深く感じられた点がひとつあり。それは、この作品やジャンルに限らず世界的に評価される巨匠がメガホンを取る大作映画においても通底し執拗に描かれる要素「韓国製映画において警察を含めた官僚機構は、徹底して腐敗し役に立たず物語の解決に関与しない。のみならず映画における厄介な障壁としてたびたび描かれる」。
 この点に関しては本作においても。主人公を務める、大韓民国首都ソウル特別市より物語の舞台となる僻地勤務を任ぜられた警察官と。赴任先の警察署長を含む人々の、中央への媚び諂いや嫉妬を含んだ態度、あるいは地元警察と村長との癒着などなど。そしてそれらパブリックサーバントが物語の進行において事態の解決にまったく寄与しない、どころか物事をより悪化させクライマックスへ誘導する。

 韓国における実在の状相が映画界へも反映されているのか、あるいは大衆の徹底した官僚機構への疑念がいささか脚色され通俗文化に投影されているのかどちらともか。ともかく多くの人にとっては取るに足らぬジャンル映画ひとつにも、ほぼ例外なくお上への不信感が通奏低音として流れているのは。
 それを以て「ポスト・トゥルース」や「ポリティカル・コレクトネス」等のワードを織り交ぜながら、ひょっとするとオーウェルの作品からアニマリズムのスローガンあたりを引用しつつ「常に権力や権威への批判精神を怠らぬ彼の国の市民意識の高さ。翻ってこの国に住まう衆愚どものケモノよりなお劣る政治意識の低さときたら」そうイデオロギイの方面に寄せて語りたがる憂国の志士や真実の徒も多いかもしれませんが。そんな難しいことはいっさい関係なく以上が個人的に『人喰猪(ヒトクイイノシシ)、公民館襲撃す!』を鑑賞し興味深く感じた点です。

-僻陬よりいで中心に君臨す- 『シン・ゴジラ』を観て

 昨夜映画『シン・ゴジラ』を遅ればせながら鑑賞し。既に大勢の方がディテールの解説や物語の読み解き、あるいは是か非かを含め、近年ひとつの映画作品をめぐってこれほどまで闊達な論議がされた例も無いのでは、ただその一点を取り出すだけでも今作がここ数年間の日本映画作品の中でも図抜けてなにがしか孕んでいる、その証左なのではと思ったりするもの。鑑賞後個人的に感じたのは、久しぶりに大作日本映画、邦画らしい邦画を観たというもの。
 では「邦画」「日本映画」というもの何が邦画なのか、何をして日本映画らしさというのか、はじめに自分なりの所論を述べれば。

 所謂日本映画の対極として屡々引き合いに出される、アメリカのメジャースタジオが莫大なリソースを投入し世界規模での公開を企画当初から念頭につくられる娯楽大作。それらを製作する過程において大勢のスタッフによるミーティングやリテイクを重ねるごと、人種も世代も異なる数多い観客を対象にするにはオミットしたほうが順当とされがちな「雑味」。
 監督本人や脚本家の極めてパーソナルな体験や、公平を大きく欠いたポリティカルな主義主張、個人的なフェティシズム等。より多く不特定の観客に向けるのであれば濾過し取り除くべき雑味こそを逆に「作家性」として珍重しフィルムに焼き付けようとする。
 それこそが日本映画らしさなるものを形づくるひとつの要素なのでは、そして何故日本の映画作品において作家性が尊重されるようになったのか類推を重ねれば。おそらく島清、島田清次郎を開山とし現代は山田悠介やケータイ小説へと連なる通俗小説、大衆文学への反動として、商業的価値より強くわたくし個人の内面に重きを置くようになった日本の文学の派生型として。批評筋においても大衆受けより作家個人の内面こそ是とするようになった日本映画の流れがあるのでは、そう考えるが。
 あだしごとはさておき、作家性は邦画における重要な要素のひとつである。私見のもと『シン・ゴジラ』を反芻すれば。

 アニメーション製作の頃から一貫した手触り。先人が遺した作品に加え庵野秀明自身の手による実作も含めた、かつて作られたものに対する懐古主義とは似て非なる、極めておおきく偏った固執からであろう、見る人にとっては「だから庵野の、この作風が嫌なんだ」「オマージュ未満のツギハギだけで、作家性なんてとてもいえた代物じゃない」そう嫌悪されるかもしれない直接的な引用の数々。
 とはいえ引用といっても所謂ポストモダン以降というか大きな物語が失われて以降の物語というか、いまどき顕著な「こういうの知ってる?この引用元ってなんだかわかる?」「こんなところから引用できる、こんな誰も知らない、忘れ去られた作品を掘り起こせるオレって凄いでしょw」的本歌探しゲームではなく。そもそも、今作の脚本総監督を務めた庵野秀明は。たしかに自主制作の頃から「準えと模倣こそ創作の喜びである」そう主張しているかのよう本歌取りが顕著であったが。その引用元は、けしてマニアックなものではなくマニアにとっては王道の教科書的な題材ばかりで。むしろ本歌の扱い方の、時として笑いすら漏れだす大胆な引用に、当時のマニア諸氏は感心していたのかと。 
 まあ、とはいえ、上にあげたような庵野秀明の作風への批判は。例えば小津安二郎の映画に対し「フィックスのカメラばかりで動きに乏しい。カット毎にメリハリがあったほうが面白い作品になる」。あるいは黒沢清の作品に対し「なんだかよくわからない。もっと感動やカタルシスが欲しい」と文句を垂れるようなもので「だったら他の監督のものを観ては宜しいのでは」と返す他ないのでは。感じたりもするが。

 また他作からの引用だけでなく自身の過去作からの復誦。在庫を引っ張り出して継ぎ接いだだけの手抜きとは似て、どころか全く異なった動機からの。過去作で試した手法への偏執と呼ぶべきその拘りを語るにあたって絶対に外せないであろう劇伴音楽について。
 ひょっとすると、本作を鑑賞された方の中には「エヴァの音楽をまんま使ってる(笑)」そう感じる向きもあるかもしれないが。自分自身つい昨夜何の事前情報も極力入れないようにして初めて観て来たばかりなので断定できないもの、劇伴音楽についてもモチーフ。音楽用語そのままの意味でのモチーフ自体は同じものを使っているが、それは手抜きや使いまわしの類ではなく過去のモチーフからの復誦だろうが音源自体は新規に。楽器の選択から譜面作成、演奏者とレコーディングスタジオのお膳立て、レコーディングミキシングマスタリングに至るまで刷新しているに違いなく。そもそも鷺巣詩郎が。
 庵野秀明から劇伴音楽を任された鷺巣詩郎が、ストックの使いまわしなんてしみったれた事をする筈が無く。かつて手がけたエヴァンゲリオンの楽曲で得た澗正載極の資産をここぞと全面投入し、ぱっと聞き同じに聞こえるかもしれない音源も全て莫大なリソースを投入した上で新造しているに違いなく。そのような、総じて無駄にしか思えない行為もひとえに過去作で試した手法の作直改造への、執心としか言い表せない創作動機からと思われ。

 閑話休題。それを他作からの影響だと看破されるのを全く顧みないあからさまな引用や、自作からの復誦以外にも爆発や光学合成へのフェティシズムなどアニメーション製作の頃から一貫した手触りは、過去作と比較しても豊かな質感の、ハリウッドと比較しても遜色ない。は言い過ぎだろうが凡百の国産映像作品と比較しても陳腐さをあまり感じさせない今作においてもそれは健在で。
 庵野秀明ならでは、ここまで一貫するとそれは作家性と称せざるをえないのでは、同一監督の手掛ける作品に共通した感触がスクリーンの向こう側から飛び出してくる、シネフィルや批評筋の大好きな日本映画の堂々たる本流であり。アメリカのメジャースタジオにおいて膨大な数の鋭才が集まり合議を重ね、幾多の改稿を以て作られた娯楽大作と比較しても引けをとらない、どころか優っている部分さえあると思える。
 日本という国で生を受け、時間の大半あるいは全てをこの国で過ごしてきたものが観客として映画館に足を伸ばし、これを鑑賞し。多くの心中にいまだ深く刻み込まれている、あの出来事を強く思起回想しながら激賞も拒絶も含め、各各思い思いの偶感を鑑賞の手土産として映画館を後にする。

 骨子にあたる主題に演出方法などディテールの部分。そしてそれを作る監督は今現在の、テレビ局や広告代理店製作委員会が主体として作られる邦画の主流本道から外れているのかもしれないが、鑑賞後の印象はこれぞドメスティックな日本映画。数年前のあの出来事を体験した日本の今だから作り得た物語。あの出来事を体感したからこそ是非含めた様々な感情を想起させる、この国の邦画の中の邦画と断言できる。

 また直上で、今現在の邦画の主流本道から外れているのかもしれない。そう述べたもの邦画界においては、大手制作会社に所属あるいは大御所監督の下で経験を積んだ後、徐々に大きな仕事を任せられるようになる本流だけではなく。
 自主制作映画を起点として、所謂正当な筋道を経由せず批評筋や海外からの評価を足がかりに、やがて大作映画を任されたり。それ以外でも『痴漢電車シリーズ』などピンク映画を長年作り続けていた監督が、ついには米国アカデミー賞の外国語映画賞を獲得したり。傍流から始まり本流の真ん中に向かう例もあるのだから、主流から全く外れ続けていたものが主流のど真ん中に躍り出る邦画の、またひとつの流れからいっても『シン・ゴジラ』は正々堂々たる日本映画なのかもしれない。

 と、映画『シン・ゴジラ』を昨夜観て受けた雑感をざっと以上述べさせていただきました。