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『この空の花 -長岡花火物語 (DVDプレミアBOX版) 』

 『この空の花 -長岡花火物語 (DVDプレミアBOX版) 』を購入。さっそく鑑賞。

 映画本編の素晴らしさ凄まじさに関しては今さら。ましてや自分が何も語る事はないものの(自分ごときの言葉では今作の圧倒的な内容を、ただただ矮小化させるだけだと)。
 プレミアBOXに収録されている、6時間近く353分に及ぶメイキング映像。いやメイキングそのものが今作『この空の花 -長岡花火物語 』の。
 消え去りつつある戦争の記憶や震災、花火や原子爆弾等々それぞれには関連の無い、雑多な偶然の集まりにおもえた要素が。とある舞台劇の上演に向かって結集してゆくまでを描いた今作の、姉妹編として確固たるひとつの作品になっている。そう評して全く過言にあたらないと感じたのだが、とにかくメイキング映像。

 メイキング映像終盤の光景。76歳を迎えた大林宣彦本人が、広島県尾道の仕事場においてパーソナルコンピューターを前に今作の編集作業をしている姿を捉えた映像に。プロアマ有名無名問わず、作り手の端くれを自認しているのであれば。これを見て何も感じない者などいないのではないか。

 映画監督大林宣彦というと。独特の編集、カットとカットのテンポや、それが作り物であることを全く隠そうとしない俳優の演技や台詞回し、画面構成や特殊効果など。本人自身のキャラクターも含めて、とかく「変だ」「型にとらわれない」「個性的」等々「奇矯」といった言葉で片付けられがちだが。
 映画監督以前に、作り手として何が凄いか、いまだ評価され続けているかというと。根っこの本質の部分で、夥しく強固で洪大な、熱く燃えたぎる物作りへの情熱「なにかを伝えたい」「言葉ではうまく表すことの出来ないなにがしかの想いを形にしたい」の感情をいまだ有し続けているから、まずそれが大前提としてあってこその評価で。上にあげた奇矯さなど、あくまでも枝葉に過ぎないものなのだと。

 『この空の花 -長岡花火物語』のメイキングを観て、改めて強く思った次第。

 以下蛇足として。

 『この空の花 -長岡花火物語』。「反戦」が大きな主題になっているのは一目瞭然なのだけど。
 反戦や恒久平和、あるいは反原発や差別の無い世界への希求等、真っ当で真面目な主張を作品に込めて訴えるのであれば。今作くらいのものでないと。
 作品に込めた主張以上に、まず作品として受け取り手の心を動かすものでないと。
 もちろん反戦や反原発といった主張それ自体を否定するつもりは微塵もない。大変意識の高い、素晴らしいものには違いないが。

 個人的経験を挟むと。過去に知人から勧められて、あるいは自発的に上記の主題を掲げた映画を数本観たものの。それらを馬鹿にするつもりも批判するつもりも毛頭ないので具体的な作品名は挙げないが。
 それらはどれも、作品そのものの面白さよりも前に、作り手の高い志が前に出すぎているように感じ。
 意地のわるい言い方をすると「より良い世界の実現を目指し、こんな崇高なメッセージを作品に込められる私たち!そんな私たちがこれほどまでにも啓蒙活動を行っているというのに、どうして貴方には理解できないの?どうして行動しようとしないの?」との作り手の意識ばかりが、スクリーンの前に乗り出しすぎているように感じ。
 それでは自分も含めた多くの愚民はのっていけない。意識の高い作り手の思惑とは裏腹に、大衆との距離はひらいてゆくばかりかと。

 ほんとうに何かを伝えたい。自己の主張を多くの人に理解してもらいたいと思いなにがしかを作るのであれば『この空の花 -長岡花火物語』並に。まず作品それそのものが人の心を動かすものでないと。なかなか難しいと感じた。

子供の生活発表会のビデオ

 先日、子供の通っている保育所の生活発表会が開かれたので。今こそ昨年購入したオリンパスのデジタルカメラ。OM-D E-M1の真価が発揮される時と(レンズ交換式デジタルカメラの動画撮影機能は、まったくもって馬鹿にできない)子供の様子を映像に収め。

20140428

 後日、アドビの映像編集ソフト。プレミアを使って(最近になってアドビが始めた、ソフトウェアの使用期間を一ヶ月単位で区切って販売する方法。特定の専門作業を年がら年中している訳では無いが、たまに自宅で使いたいユーザーにはなかなか便利な販売方法だと思う)カメラを振った際やズームした前後に生じる、いささか見栄えのよくない箇所を切り取り。
 切り取った場面と場面とが違和感なく繋がって見えるようにと(リーズナブルな映像編集ソフトにありがちな「ワイプしてまっせ!」「画面が切り替わってまんがな!」と大声で主張しているような効果は、個人的にどうしても好きになれないので。多少高価になってもプレミアを使ってしまう)編集をしているうち。
 カメラを固定して遠景をずっと撮っているものと、子供におおきく寄った近景を撮っているものとのカメラが二台あれば。いや、手持ちのカメラとあわせて三台あれば。そして三つの視点で撮ったものを編集して一本の映像にすれば、もっと見栄えの良いものになるのでは、との思いと。
 たかが子供を撮った映像に、なにをそこまでこだわる必要がある。との二つの相反する思いが作業の間、ずっと交錯し続けるのでした。