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童貞が作ったAV

20140728

 自動車評論家、沢村慎太朗の著書『午前零時の自動車評論』の第七集。数少ない、その文章にお金を払う価値のある自動車評論家のひとりと思っている沢村慎太朗。同氏が定期刊行しているメールマガジン上で、特定の車種や自動車そのものに関係する素材や技術についての論考、あるいは自動車にまつわる歴史や人物についてなど、様々な切り口で紡がれた文章を一冊の本にまとめ、シリーズとして刊行され続けているのが『午前零時の自動車評論』。
 第七集が先日発売されたので第一集からかかさず購読している身として、当然のように購入したのだが。頁をめくり目次をみてぎょっとしたのが「童貞が作ったAV」と題された項目。

 その扇情的な題名に我が目を疑ったものの、おそらくそれが伝えようとしていることは。
 ちょうど先日にデザイナー、奥山清行の著書を。ゼネラルモーターズやピニンファリーナでチーフデザイナーを務め、マセラティ・クアトロポルテ(5代目)やフェラーリ・エンツォフェラーリをデザインした奥山清行の著書『100年の価値をデザインする「本物のクリエイティブ力」をどう磨くか』を読了したばかりだったので、おおよその察しがつき。
 「童貞が作ったAV」の題名が伝えようとしていることは『100年の価値をデザインする』の中でも触れられていた。実際の実物を熟知していない者が、作り手や送り手側にまわった際の弊害。『100年の価値をデザインする「本物のクリエイティブ力」をどう磨くか』の該当章「『本当に好きなもの』を作り、売る」の中の一文を以下に引用すれば。

 「作り手がみずから使わないでいると、そのうちにユーザーのほうがはるかにその商品について詳しくなってしまう。詳しくなった人が、無知な作り手から『ライフスタイルを提案させてください』などと言われたら、どんな気分か。だから、すべてのものづくりに携わる人に僕は言いたい。『自分の作っているものを使いなさい』と。」
 「その意味で、現在危機にあると思うのは、フェラーリだ。昨今のフェラーリの設計者たちはほとんどフェラーリに乗っていない。」
 「その昔、フェラーリの作り手たちは自らレースに出るために車を作り、自ら壊しては直した。当然、自分たちが作った車のことは誰よりも詳しい。」
 「ところが、今のフェラーリを設計している人といえば、元フィアット・パンダのエンジニアとか、前はアルファロメオにいたといった人ばかりで、フェラーリに乗っていない。今の量産フェラーリはすでに、身銭を切っているお客様のほうが詳しい。」

 以上括弧内『100年の価値をデザインする』からの引用。と同様の論旨なのだろうと察しはついたものの。

 しかし、それにしても「童貞が作ったAV」とは。例えば、拈華微笑の意を介さずに聞きかじった座学だけで蒟蒻問答をこねくり、他者をやり込め打ち負かし悦に入るなんちゃって覚者の愚かさや。あるいは訓練とその管理維持に膨大な手間と費用の生じる、工業製品よりもはるかに歩留まりの悪い「人員」というユニットをやみくもに増強するメリットとリスクを一切検証せず、ただその場の空気や感情の赴くまま徴兵制の是非について口角泡を飛ばすことの危険性など。いくらでも例えようがあるだろうに、どうしてAV。ポルノソフトにそれを例えようとしているのか。

 加えてAV、実用性こそが商品価値の全てといってよいポルノソフトにおいても例外的に、例外を引き合いに出さなくとも、例えば成人向け漫画や同人誌の作り手の中には。現実的経験に乏しくても、いや現実的経験に乏しいからこそ膨れ上がる幻想と妄想と衝動のおもむくまま。現実世界のドン・ファン・テノーリオ達には決して描くことが出来ないであろう、実用といった本来の目的を逸脱した一大暗黒幻想叙事詩を描き出すことは決してありえない話ではないだろうし。
 そもそも、そんな例えを持ち出さなくても、ヘンリー・ダーガーが描き出した『非現実の王国として知られる地における、ヴィヴィアン・ガールズの物語、子供奴隷の反乱に起因するグランデコ・アンジェリニアン戦争の嵐の物語』が雄弁に示しているように。
 自動車作りと実車の運転体験の欠如と。AV製作と童貞とを同義的なものとして俎上に載せるのはいささか見当違いなのでは。読者によっては決して小さくはない反感と異論とを誘発させるのでは。そう実際の本文を読む前から、腕まくりをするくらい吹き上がっていたものの、いざ「童貞が作ったAV」の項目を読むと。

 以下括弧内は同項目からの引用。
 
 「そういう若者が自動車のデザインをするようになる。生身の身体の20倍はあろうかという質量の機械を、生身の身体が可能なそれの20倍以上のスピードで運動させる。その行為を肉体と脳に叩き込んでいない人間が自動車の形態や色を決めていく。色彩や視覚という物理科学現象や、それに誘発される心理について知見を育てることをしなかった者が自動車デザイナーを名のる。過去の名車のデザインを、走るリアルを伴わぬ単なる造形美でしか捉えられない人間が温故知新したつもりになる。そして、これぞ自動車の魅力でございとばかりに最新のデザインとやらを謳う。」
 「まるで童貞が作ったAVである。深い知識も体験もない奴が、耳学問のディテールを妄想で膨らませて構築したエロ。今や、童貞が作ったようなそういうエロに充ち溢れた漫画が同人誌だけでなく外の世界にも漏れ出しているが、あれはそもそも童貞がお客なのだからそれでいいのかもしれない。しかし、自動車は違う。エロ同人誌は社会に潜在的な問題性をはらませるかもしれないが、こちらは事故というすぐ目の前のリスクに直結する。そもそも我々は童貞ではない。普通免許保有者の中には童貞もいるだろうが、少なくともこの本を読んでくださっている方々の中に童貞はいないと信じる。」

 以上引用終わり。
 と、なるほど。そこに込めた論旨は確かに伝わった。事故やあるいは死傷といったリスクと常に隣り合わせにあるものの設計製造に携わる者達の心積もりについて、もっともっと明確な意識を持つべきだとの啓発を込めて、あえて鬼面人を威すような題名を冠したのだと。
 本文を読む前から題名だけを見て吹き上がっていた軽率さを反省するとともに、まんまと筆者の手のひらの上で踊らされていたのだなあと苦笑し。同時に、上に引用した奥山清行、沢村慎太朗両氏の文章は、確かに論旨こそ似通っているのかもしれないが、しかし最終的な帰結点。その文章が向かった地平線の先にあるチェッカーフラッグは、案外離れた地点に立っていたのかもと。やはり読む前にあれやこれや憶測を膨らませても、実際に読んでみると読前とは異なった存意をもつのだと、至極当然であった筈の認識を新たにした次第。

 しかし、読後に改めて湧きあがったのは。著者から「AV」や「エロ同人誌」といった、これまでの著作に親しんできたものからは、にわかに信じがたい言葉が出てきたこと。
 (それがどうしたと思われる方、あるいは「なんという猥雑な文章だ」と反感を持たれた方は、是非同氏のこれまでの著作物。とりわけ、まさしく大著の言葉が相応しい『スーパーカー誕生』を読んでほしい。そうすればまた印象が変わるに違いない)。

 そして、上記の「少なくともこの本を読んでくださっている方々の中に童貞はいないと信じる。」の言葉に対して「否、拙は童貞にて候」と、声を大にして異議申し立てできないところがなんとも残念。

川村万梨阿 デビュー31周年記念BOX 『ΟΔΥΣΣΕΙΑ』

20140727

 注文していたCD。川村万梨阿 デビュー31周年記念BOX『ΟΔΥΣΣΕΙΑ』が手元に届く。
 
 購入した人すべてが真っ先に抱くであろう感想「でかっ!」。

 とはいえ、いまでは「バイナル」の呼び名のほうが通りがよくなったアナログレコードのアルバムと同じサイズだから、大きさそれ自体はそこまで特別なものではないのだが。数十年前ならいざ知らず、いまどき流通されているアナログレコードのジャケットは、絵はおろか文字も入っていない無味乾燥なものが殆どなので。これくらいのサイズのジャケットにアートワークが施されていると、実物を目にした時のインパクトは絶大。
 ジャケットのサイズとアートワークに関しておそらくは、川村万梨阿のパートナーでもある永野護の意向も働いているのではと推測するが、当人のほくそ笑みがジャケットから浮かび上がってきそう。

 まあ、そんなことは関係なしに。そして、懐古趣味に囚われたおっさんの世迷いごとであるのも承知で。
 「CD主流の時代において、小さいことが前提でデザインされるアートワークを認めるべきか否か」なんて真剣に論じられていたことすらも懐かしく感じる現在において。この物理的な大きさは、手にとってただ眺めているだけでも感に入るものが。
 
 勿論肝心の中身も。

 今回のベスト盤。発売元は日本コロムビアということで。先月25日の内容とは矛盾するものの、さすが日本コロムビアといえるものに。
 クレジットを確認すると、今作のマスタリングエンジニアは佐藤洋。同社のクラシック音楽やジャズアルバムのマスタリングにおいて、日本プロ音楽録音賞を幾度も受賞しているサウンドエンジニア、佐藤洋の手により、かつては他社から発売された音源も日本コロムビア社内でもう一度マスタリングし直されてあり。今作に収録されている楽曲を既に持っている方も、手元のCDと今作とを聞き比べてみると、単なる思い出の再生装置に終わらない、また新しい楽しみかたがあるかと。